安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「僕みたいに世間や人生を呪い苦しんでいる者には、やはり仏教でも救われないのでしょうか?」(死人さんのコメント)

死人さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

死人 2013/05/31 20:50
僕は浄土真宗の教えをほとんど知らないのですが、半年ほど前から救いを求めてネットで色々探しています。
昔から心を病んでいて、若いころに自殺未遂をして働けない体になりました。
もう疲れてしまったので死ぬつもりでしたが、どこかで救いを求めているからネットで宗教関係を探しているのかもしれません。
ここ数ヶ月、ずっとここの過去ログなどを読ませてもらいましたが、どれだけ阿弥陀仏の救いを求めても救われません。
本心は救いなんて求めていないからなのかも知れません。
コメントをみると、僕みたいに外にも出られないなんてこともなく、体も心も不自由しない人たちがたくさん救われているようです。
過去ログのどこかに、仏様は苦しんでいる人にこそお慈悲がかかる、みたいなことも書いてあったのですがどこの宗教の神も仏も不平等だと思います。
僕みたいに世間や人生を呪い苦しんでいる者には、やはり仏教でも救われないのでしょうか?
もう人生はあきらめているし、そろそろ生活費も払えなくなるので近いうちに死ぬしかなくなるのですが、なんとなく最後に書いてみたくなりました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130530/1369905372#c1370001017

死人さんのコメントについて、複数の方からコメントを頂き有り難うございました。

死人さんの求められている「救い」が、どういうものかハッキリしないところがあります。ただ、現状が大変困難な状況であるということは伝わってきました。


そこで、浄土真宗での救いとは何かについて書きます。浄土真宗の救いとは、阿弥陀仏の本願による救いのことです。阿弥陀仏の本願とは、生死を繰り返し自らの力ではそこを出ることができない者のために、必ず生死を離れさせ浄土に往生し仏にして見せると願われたことです。


人間の苦しみの多くは、自分の望みが望んだ通りにならない時に起きます。しかし、阿弥陀仏の願いは「私の望みを叶えて幸せにする」のではありません。そういう意味で、「苦しい時の神頼み」の気持ちで阿弥陀仏に救いを求めても、阿弥陀仏の願いと私の願いが一致しないので救われることにはなりません。


阿弥陀仏の願いは、生きて死んでいくだけを繰り返しながらそれも知らない私に向かって、そこから離れて浄土に生まれ仏になりなさいということです。それもただ願うだけでなく、私を浄土往生させるために南無阿弥陀仏となって私に呼びかけられています。その南無阿弥陀仏を、「ただ今お前を救う」とのお働きであると疑い無く聞いたことを信心といいます。その信心の定まった人は、どんな者でも必ず浄土往生させて頂けます。


どんな人でも同じ浄土に往生し、仏に生まれさせるというのは人間の側からみるとどう考えても平等ではないと思われると思います。仏の慈悲は苦しむ者にかかるというのは本当ですが、死人さんがそう思われないのは、現在自分が救われていないという自覚から言われていることだと思います。平等の慈悲なら、自分を救って見せろと思われていると思います。


世の中や人生を呪っている人でも、阿弥陀仏は救ってくださいます。なぜなら、阿弥陀仏は過去の経緯を問題にされないからです。いつでも、ただ今救うという仏様です。現在の死人さんが、「現在苦しんでいる」という点に仏の慈悲はかかります。必ずただ今救われます。


南無阿弥陀仏が私を救うお働きですが、死人さんは南無阿弥陀仏についてどう思われますか?