安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「真宗において求道、善知識とはどのようなものでしょうか?」(頂いた質問)

二つ質問があります。
1つめは、仏法を聞いてから求道は始まるものですか?
2つめは、善知識についてです。善知識は、自分から求めるものですか?それともすでに出会っているのでしょうか?
また、救われたあとに自分にとっての善知識が誰であったのか知らされるのでしょうか?
どのような人物や書物が自分にとっての善知識になるかは違うのでしょうか?
人から法を聞くのと、弥陀の願心説かれている本を読むのと、もし差があるのでしたら、どういう点が違うのでしょうか?
私は、自分の疑問が言えて、それに答えて頂けるという点で、書物よりも人から聞かせて頂く方が良いのだろうと思っています。人から聞いてもテレビをみるように一方通行であるならば、人から聞く意味があるのかな、というふうにも思ってしまいます。(頂いた質問)

最初に求道について書きます。
一般に、求道はどういう意味で使われているかというと以下のようなものです。

ぐどう【求道】
道とは菩提の意訳。さとりを求めること、あるいはさとりに至るために道を求めること。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

言葉の意味から「修行前提」が求道の定義です。その意味では真宗は「修行で証をひらく」教えではないので、そもそも馴染みません。聞法はいわれますが、その聞法をイコール求道というと意味合いが異なってきます。もちろん、なんとか阿弥陀仏の救いにあおうと思って法座に足を運ばれるわけですから、気持ちとしては「求道」となるのはとてもよく分かります。しかし、「この求道の先に救いがある」と考えると、法を聞き入れるはずが、取りに行くという形になり方向が変わってしまいます。

最初の「仏法を聞いてから求道は始まるものですか」については、最初に法を聞く機会に恵まれて、それを信じて教えの通りに進んでいこうというのが求道ですから、その通りです。しかし、先ほど書いた通りで真宗では求道という言葉は使わず、聞法といっています。

次の善知識についてですが、言葉の定義は、以下のようになっています。

ぜんぢ(ち)しき 【善知識】
悪知識に対する語。巧みな教化者。教えを説いて、仏道に入らしめる者。正しい道に導く者。また仏道に入らせる縁を結ばせる者や、ともに仏道を励む者をいう。善親友・善友・親友・勝友ともいう。浄土真宗では、とくに念仏の教えを勧め導く者をいう。(同上)

念仏の教えを勧めて下さる方とすでに会われているのであればいなければ探すしかありません。すでに出会っているかに関しては、すでに念仏の教えを聞かれているのですから、会っているということになります。

救われた後に自分にとっての善知識が誰であったのか知らされるのか?については、その人その人にとって、思い当たる人はいると思います。たほうがよいです。また、どのような人や書物が自分にとっての善知識になるかというのも、一人一人違ってくると思います。特定の人しか善知識になれない、といものではありません。また、特定の本でしか阿弥陀仏の救いは知らされない、ということもありません。

人から聞くのと、本を読むのことの違いについては「情報量の違い」はあります。文字情報しかないのが本でが、人から聞くとそれに加えていろいろなものが伝わってきます。法話に限らず、同じ人ならば本よりは直接聞いたほうが受け取るものは多いです。また、直接聞くことがあればお互いに思ったように言い合えるのが一番よいとおもいます。本では、読んで分からないことを著者に尋ねることはなかなかできないことも多いですが、話ならば話した人に尋ねることができます。

一方通行ならば、人から聞く意味があるのかなとのことですが、本を読む以上に話す人が伝えたいことは伝わってきますのでとても大事なことです。
その一方で本のよいところは時間と場所に制限されず、法を聞くことができる点です。親鸞聖人の書かれたものも、蓮如上人が書かれたものも、書かれた方に直接会って話を聞くことはできません。しかし、文章で書いて下さったことによって今日の私でも文字を通して聞かせて頂くことができます。また、種々の事情でなかなか法座に足を運ぶことができない時は、文字で法を聞くということもできます。

形はいろいろありますが、南無阿弥陀仏を助ける法だと聞かせていただく場に身をおき、重ねて聴聞することが大事です。