安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

仏縁に深い、浅いはあるのでしょうか?(錦さんのコメント)

錦さんよりコメントを頂きました。ありがとうございました。

宿善の厚薄や遅速があるというのが、どうも引っかかります。
阿弥陀仏の救いは平等の救いなのにどうしてという感じで納得いかないのですが。
そもそも仏縁に深い、浅いなどというものがあるのでしょうか。
過去に仏法を求めていたとかいなかったとか、そもそもそういうことってあるのでしょうか。(錦さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110421/1303361575#c

錦さんのコメントでは、仏縁という言葉の意味について聞かれていると思います。

仏縁に深いとか、浅いということはありません。
個人的に「自分は仏縁が浅いなぁ」と思うことはあるかもしれませんが、阿弥陀仏から働きかけてくださることですから、阿弥陀仏からは平等です。
「仏縁深い人」に特に阿弥陀仏は光明を強く照らされるとなると、いわゆる依怙贔屓となってしまいます。「苦しむ者にひとえに重くかかる」仏の慈悲ですが、「縁の深い人にひとえに重くかかる」のではありません。
仮に多く聞いてきた人、布施や供養をした人が、縁が深い人だとしても、「あなたはよく聞いてくれた、ずいぶん布施をしてくれたから優先的に極楽へつれていくぞ」という阿弥陀仏はおられません。

過去に仏法を求めていたかどうか、については、生まれるまえは誰も覚えてはいません。覚えていなくても、生死を繰り返してきたのが私ですから、過去において仏法を聞いていたことはあったと思います。また、過去に仏法を聞いた人が、また今生で法を聞き求めるのだと教えられています。

ただし、「過去にこれだけ聞いていたから、あの人は救われた」「私は過去にあまり仏法をきいてこなかったから、今生は間に合わない」などということはありません。過去の善い行為の蓄積が、阿弥陀仏の救いに関係するということはありません。
私の過去の行為によって救われるかどうかが決まるのでは無く、あくまで阿弥陀仏の本願力によって救われるからです。

しかれば、機に生まれつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分*1あるべきや。(口伝抄・浄土真宗聖典(註釈版)P879)

生まれついての善悪があるとしても、それは往生の足しにもなりませんし、障害ともなりません。「弥陀の仏智をつのりとせん」よりほかには、凡夫が往生するということはありません。

宿善に遅速ありと言ったばあいの「宿善」は、信心獲得のことです。信心獲得した人が、かりに2人いれば、同時ではないので遅速はあります。

他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。(御一代記聞書234・浄土真宗聖典(註釈版)P1308)

他宗では法にあうことを「宿縁」というといわれています。真宗では信心獲得することを「宿善」というといわれています。

ほかのところで「宿善があった」といわれるところは、仏法にあうことができたとか、仏法を聞く心になったという意味でつかわれています。それは「あったか」「なかったか」の有無でいわれることです。

「宿善に厚薄あり」というお聖教の言葉はありません。「宿善あつきひと」という言葉は、口伝抄にありますが、これは「過去世の善業が多い」のことであって、「仏縁が厚い」という意味ではいわれたお言葉ではありません。

されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる、宿悪*2おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。(口伝抄・浄土真宗聖典(註釈版)P878)

過去世の善悪によって、今生に善をこのむ人、悪をこの人がでてくるという部分です。
「仏縁厚い人は、過去世に善を積んできたひとであって早く救われる」というような内容ではありません。

今生に善をこのむか、悪をこのむかといったありさまは、過去の善悪によってきまるとしても、それは往生とは関係ないといわれている文章の一部分です。

上記のあとに、このように続きます。

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて*3機のよきあしきに目をかけて往生の得否*4をさだむべからずとなり。(口伝抄・浄土真宗聖典(註釈版)P878)

今生の善悪は、過去の因として、それはそれとして置いておいて、往生は本願力にまかせなさい。決して、機の善し悪しで往生できるかできないかを自分で決めてはならないとおっしゃっています。

お尋ねの「仏縁」という言葉で考えると「仏縁が厚いとか薄いとか」が、「機のよきあしき」にあたるとおもいます。「仏縁が厚いから」とか「仏縁が薄いから」と考えることは意味がありません。
そんなことを心配するより、如来の他力にまかせることが大事です。

阿弥陀仏の救いには差別がありませんので、私の方で「過去の業が云々」「仏縁が云々」と差別をつけるのが、本願を計らうということです。

*1:得分・・利益

*2:宿悪・・過去世での悪い行い。

*3:かつて・・決して。断じて。

*4:得否「うるやいなや」(左訓)。