安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「たがひに郢匠(えいしょう)たらしむる」について(頂いた質問)

2月20日の二千畳座談会に参詣しました。
(略)
「郢匠」(えいしょう)と言う言葉が、出てきました。
その時の解説は「二人の作ったうちは何百年たっても隙間一つなかった。郢匠の家建てた家は凄かった。そこで弥陀と釈迦の関係は郢匠といわれる」とありましたが、今ひとつよく分かりません。どういう意味でしょうか?(頂いた質問)

頂いた情報の中にもその表現は出てきましたが、お尋ねされた「郢匠」については、上記の解説では何の解説にもなっていません。
親鸞会では、阿弥陀仏が19願を説かれ、お釈迦様はそれを一生涯解説されたのが八万四千の法門だといって話をしますが、それを「郢・匠」といっては間違いです。また、親鸞聖人が阿弥陀仏の本願に真仮があるといわれたことを「郢・匠」と当日話をしていたようですが、それも間違いです。

たがひに郢・匠たらしむることを致す。(観無量寿経疏・定善義・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P423

と観無量寿経疏定善義に善導大師が言われているところです。

『荘子』 に出る二人の名人の故事。 郢人(えいひと)の左官の鼻先に薄く塗った土を、匠石(しょうせき)という大工が手斧(ちょうな)を振って傷つけることなくこれを落としたという。 ここでは、釈迦・弥陀二尊の意が一致していることを喩えたもの。(浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P423の註釈部分より

この部分は、観無量寿経の中で、韋提希夫人に対して

仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。(観無量寿経・浄土真宗聖典(註釈版)P97

と仰ったと同時に、空中に阿弥陀仏が現れた場面を解説されたものです。

お釈迦様は、苦しみ悩む韋提希夫人にたいして「苦悩のを除く法」を説かれました。そのお釈迦様が説かれることに応じて、阿弥陀仏は韋提希の前に現れて下さいました。その時韋提希夫人は阿弥陀仏にすくい取られました。
お釈迦様と阿弥陀仏と、二人の仏様が心を一つにして韋提希夫人を済度されたのでこれを「二尊一致」とか「二尊一教」といわれます。

獄中の韋提希夫人に対して「苦悩を除く法を説く」といわれたのは、「19願」ではありません。「阿弥陀仏の第18願」です。
阿弥陀仏の第19願は、善を実行し、できた者は臨終に迎えに来るという願です。もし、「苦悩を除く法」が第19願であったならば、阿弥陀仏が即座に韋提希夫人の目前に現れられる道理がありません。
阿弥陀仏がただ今その場で救ってくださるという法が、第18願であって「苦悩を除く法」です。「苦悩を除く法」に応じて阿弥陀仏がお姿を現して下さったと言うことは、その「苦悩を除く法」がただ今救うという阿弥陀仏そのものだということです。これを立撮即行といいます。

もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによりてか勉るることを得ん。 この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち行く。 端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり。(観無量寿経疏・定善義・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P423

阿弥陀仏が、どうして立ち上がり直ちにすくい取ってくださるのかと言えば、そうしなければ迷いの凡夫を救うことは出来ないからです。善が出来る者を座って待って迎えられる仏様ではありません。

阿弥陀仏の本願一つを説かれたのがお釈迦様です。ただ今救う本願一つを教えられたのが、親鸞聖人です。
「善をせよ」ではなく、「ただ今阿弥陀仏に救われなさい」と教え続けられたのが、お釈迦様であり親鸞聖人です。