安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信仰が進む」は浄土真宗にはない親鸞会独自の教義です(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

顕真11月号に
「善をしてゆけば、そのうちに助かる」は甚だしい聞き誤り
という、信心の沙汰を紹介した記事が載っていました。その中に、
『「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、「善をしていけば信仰が進み、やがて助かるようになる」と聞き誤りやすいのだと思います。』とか、
『「今、助ける」本願が常に説き切られているのに、「善の積み重ねで助かる」とか「そのうち助かる」と聞くのは、とんでもない誤りではないか。』とあります。

そこで、思ったのですが、
「善をしなければ信仰は進みませんよ」というのは、「善をしていけば信仰が進む」という意味でなく、
「(本当の)善ができれば信仰が進むかもしれないが、できないのだから、信仰が進むということは金輪際ない(助かる縁はない)」という意味だととればそのとおりなのではないでしょうか?どう思われますでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091021/1256129656#c1258905196

回答します。その発想は無かった、と思いました。
Kさんの書かれるような意味で話をするということは今まで聞いたことがなかったからです。

そうなりますと、コメントにある顕真の言葉を一部借りますと

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、「善をしていけば信仰が進み、やがて助かるようになる」と聞き誤りやすいのだと思います。(顕真11月号より)

は、以下のような意味だということになります。

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、善をして阿弥陀仏に救われると言うことは金輪際ないのだから、ただ今弥陀に救われなさい。

この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。(教行信証信巻

私たちのする善をもって往生浄土しようにもそれはできないことだと言われているとおりになります。

ただそうなると、余計に「信仰が進む」という言葉の意味がわからなくなります。
何度もコメントの文面を読んで分かったことは3つあります。

  1. 「阿弥陀仏に救われる」と「信仰が進む」は全く別の言葉
  2. 「善をして阿弥陀仏に救われる」ことはない
  3. 「善をしなければ信仰は進まない」→「善をすれば信仰が進む」

この顕真でわかることは、親鸞会では、「阿弥陀仏の救い」と「信仰が進む」ということの2つを勧めているということです。しかも、その2つは別物だということです。

しかも、「信仰が進む」という言葉は、親鸞会内で使われる意味合いからすれば、親鸞会オリジナルの教義といえます。いわば造語です。
ただ「信仰が進む」は、他宗教で普通に使われる言葉なので、真宗にはない親鸞会独自の造語であるということがわかりにくいのです。

そうなりますと、親鸞会では、浄土真宗の教えと、浄土真宗にない教えの二つを混ぜて教えているということになります。
かつて本願寺から、「善をして助かるという教義は真宗にない」という批判に対して、「そんなことは一言も言っていていない」と突っぱねた理由は、ここにあったのだとわかりました。

たしかに一言もいってないはずです。
「信仰が進む」ために善をすすめていたのですから。しかも「信仰が進む」というのは、親鸞会独自の教義だったからです。浄土真宗本願寺派から批判されても、まったく的外れになるのは当然といえます。

「信心決定あれかし」といいながら、「信仰が進むあれかし」と勧めているのですから、聞いている人も、「信心決定したい」のか「信仰がすすむようにしたい」のか、頭の中で混乱します。

浄土真宗を伝えるというのであれば、オリジナル教義の「信仰がすすむ」は言ってはならない言葉です。それでは、仏教だけでなく他宗教の教えをいろいろ取り入れる新興宗教団体と何も変わりません。

「信仰がすすむ」と「阿弥陀仏の救い」の2つを勧めるのが親鸞会の現状のようです。

オリジナル教義の「信仰がすすむ」をしたい人は、親鸞会に残られるでしょうが、「ただ今阿弥陀仏に救われたい」という人は出ていくのが現在の親鸞会の現状だと思います。
私たちの人生は長くはありません。ただ今の阿弥陀仏の救いを求めながら、さらに平行して「善をしなければ信仰は進まない」と一生懸命「信仰がすすむ」ことをやっている時間も体力もありません。

阿弥陀仏の救いはただ今ですから、まず阿弥陀仏に救われる事が大事です。

長らく考えていた「信仰は進まない」という言葉の意味が、Kさんの言葉をきっかけに、「親鸞会独自の言葉」だとよく分かりました。Kさん有り難うございました。真宗に関係ある言葉だという意識がありましたが、全く関係なかったのです。