安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「我々の命と交換で信心が頂ける訳ではないと思います。我々が命をかける意味と信心獲得の関係を教えて下さい」(質問箱より)[命がけの料理人の話]

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質問箱より

歴代の善知識方は、命がけの真剣な聞法を勧められてます。しかしかといって絶対他力である以上、我々の命と交換で信心が | Peing -質問箱-
Peing-質問箱-に頂いたものについて、以下のように書きました。

聞法の勧めについては、浄土真宗ではすでに法は完成していて私に勧められるのはその法を聞いて救われなさいという意味です。命がけでというのは、私の命がいつ終わるか分からないので「早く早く」という意味合いでのもので言われています。
信心獲得との関係については、命のある内に信心獲得ということはありますが、命終わればそれも叶いませんので、命のある内に南無阿弥陀仏を聞いて下さいということで勧められます。仰るように、命と引き換えに信心が頂けるという意味ではありません。

上記に追加して書きます。

お尋ねにあるように、「真剣に命がけの聞法」が信心獲得の必要条件として設定されているからという理由で勧められている訳ではありません。なぜなら、質問にもあるように「命と交換で信心が頂ける」訳ではないからです。


真剣に勧められるのは、言い換えれば「時間がないぞ」という意味で言われるのであって「真剣にならないと頂けないぞ」という意味で言われているのではありません。

明日もしらぬいのちにてこそ候ふに、なにごとを申すもいのちをはり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ。命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ、御こころえあるべく候ふ。(御文章1帖目6通・睡眠 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1092)

http://urx3.nu/Z21z

こちらの御文章にも、「命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ」と言われています。仮に、信心獲得しないまま命が終わる時に蓮如上人はどう思われるでしょうか?少し考えて見ると分かると思います。


「なぜ命がけで聞かなかったのか!!」と臨終の私を責められるでしょうか?そんなことはありません。ただ、悲しく思われるのではないでしょうか?それは「命のうち」ならば、いつでも信心獲得の身になることはあり得たからです。阿弥陀仏の本願力が、私を助けるという点で、何も妨げになるものはありませんが、私の「命のうち」という時間制限があります。もちろん、またいつになるか分からない先に人間として生まれて仏法を聞くようになればまたご縁もあるでしょうが、それは私の感覚から言えばいつになるか分からない程の先のことになります。


それに、善知識方は「急げ急げ」という意味で聞法を勧められるのは、「真剣になったら救われる」からではなく、「命のうちに」でないと聞けない法だからです。


それに命がけという意味で言えば、阿弥陀仏が私を助けるのに命がけになっておられます。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P644)

http://ur2.link/VGyq

法蔵菩薩であった時に、「若不生者不取正覚」という本願を建てられて、「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは仏に成らじ」と言われています。
つまり、この私が本当に救われないならば、仏のさとりを取りません、仏の立場で言えば仏のさとりを捨てますと言われています。私が浄土に往生するかどうかに、命を懸けて誓われているのが阿弥陀仏の本願です。


命がけの本願を、そのまま命がけの本願だと聞いて下さいということです。それは、「命がけの本願だから、貴方も命がけにならないと聞けない法ですよ」というのとは意味が違います。もしそうならば、阿弥陀仏の本願は、「命がけの覚悟を決めた人」しか聞けない法になってしまいます。それでは、救われない人も出てきます。

「命がけの料理人」の話

食べ物に喩えて言えば「私はこの料理を命がけで作ったのだから、食べる人も命がけになって食べて下さい」という料理人はいません。確かに、料理人の中にはそれこそ死ぬ思いで努力をし、店を回している人も多く有ります。だからと言って、その料理人は食べる人に「命がけ」を求めていません。「貴方は命がけで食べてくれました。合格です!!」という試験官のような気持ちもありません。


ただ食べて「美味しかった」と思って貰えれば満足です。
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なぜなら、命がけで作った料理は、ただお客に食べて頂きたい、美味しかったと言ってもらいたいだけであって、「命がけになって欲しい」からではありません。


同じように、阿弥陀仏の本願は私を浄土に往生させるために正覚をかけて建てられたものですが、「私は命を懸けたのだから、貴方も命を懸けなさい」というものではありません。命を懸けたのは、ただ私に浄土に生まれて欲しいからですから、その為に成就され南無阿弥陀仏をそのまま聞き入れればよいだけです。阿弥陀仏は、料理人がその料理を食べて美味しいと思えば満足なように、私がただ南無阿弥陀仏を称え聞いて疑い無いことを喜ばれます。

まとめ

料理人の例え話でもしましたが、料理人が料理を作る為の苦労はひとえにお客さんを喜ばせたいためのものですから、作る側からすれば料理を食べて美味しいと思って貰えばそれでいいのです。
同様に、阿弥陀仏は私を救う為に苦労をされているのですから、私が救われればそれで満足です。命がけで建てられた本願だからといって、阿弥陀仏は私に「命がけになれ、そうしないと救わない」とは言われません。ただ、南無阿弥陀仏を受け取って欲しいだけです。それも「命のうちに」です。だから、勧める善知識側は「早く早く」と言われます。
私の心構えの問題ではなく、ただ今南無阿弥陀仏をただ今救う法であると聞いて下さい。