安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「これでみそれなりには、いつも「今」を意識してるんですがね^^;一向にただいま救われません^^;
なにがいけないのでしょうか。なにが思い違いなんでしょうか。」( ただいま救われたい者さんのコメントより)

ただいま救われたい者 2016/09/08 21:58
私は長年の安心問答読者ですから、視点を未来には置いていないつもりなんですがね^^;

これでみそれなりには、いつも「今」を意識してるんですがね^^;

一向にただいま救われません^^;

なにがいけないのでしょうか。
なにが思い違いなんでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160906/1473162301#c1473339536

でん 2016/09/09 08:43
上記は私も疑問に思うところであります。
私は、今を意識するというよりは、
称名のうちに、私を救う力が働いていると意識してますが、
これも未来に救いを求めてるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160906/1473162301#c1473378225

ただ今救われたい者さん、でんさんから同様な質問を頂きました。有り難うございました。

「今助かろう」とか、「ただ今救われません」と言うのは、救いがどこからかやって来るように考えで居られるのかと思いました。もちろんそういうつもりはないとのコメントを頂いていますので、そのつもりはないのだと思います。

それでも「ただ今救われません」と言うのは、私が「ただ今救われて下さい」と書いていることを受けてのことだと思います。南無阿弥陀仏を聞いて称えられていても、またそのいわれを聞かれていてもそれでも「ただ今救われません」となるのはなぜかと考えると、「ただ今救う」の仰せを聞いて、その上で何か気がついたことを救いだと思われているのが原因ではないかと思います。

仮にそうだとすると、南無阿弥陀仏+気付き=救いとなり、この「+気付き」の分だけ救いが未来になって仕舞います。聞即信といわれることからすると「南無阿弥陀仏=救い」です。この「南無阿弥陀仏=救い」ですから、聞いたままが救われたことと成ります。私が気がつくことや知らされることがあったとしても、それは救われたあとの話です。

その後に知らされることを、救いの時やその瞬間に持ってくるので話が合わなくなって来ます。そのことを、前回のエントリーでは未来に目が向いていると書きました。

また、でんさんのコメントについても「称名のうちに、私を救う力が働いていると意識している」とのことですが、そう意識しているとどうにかなるというように思われているのであれば、未来に目が向いていることになります。称名はそのまま救いの働きです、私が意識しないときもそう働いておられます。私の意識を通さなくても、南無阿弥陀仏の仰せをそのまま聞いて救われて下さい。