安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「そうであったのか」「はっ、そういうことであったのか。常にずっと届いていたのですね」といったようにこの先、本願力に気づかされることがあるのでしょうか。心配しなくても、そういう日、そういう時は、やってくるのでしょうか。(頂いた質問)

ただいま救われたたい者 2016/09/04 12:59
長年、いつも南無阿弥陀仏と称えたり、阿弥陀仏を念じているのですのですが、「ただいま救われる」ということには至っておりません。

「そうであったのか」「はっ、そういうことであったのか。常にずっと届いていたのですね」といったようにこの先、本願力に気づかされることがあるのでしょうか。

心配しなくても、そういう日、そういう時は、やってくるのでしょうか。

安心したいものです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160828/1472379264#c1472961569

阿弥陀仏の本願は私の能力によって救われるとか救われないが決まるようなではありません。とはいっても、私が安心してください、心配ありませんと言ったからといってそれで早く救われるものでもありません。

お尋ねのコメントからすると、「そうであったのか」と気がつくのであろうと思っておられるのだ感じますが、そのような先入観を持たれない方が良いです。そのような予想をつけると、どうしても救いが今ではない先の話しになってしまいます。

阿弥陀仏にただいま救われると言うのは、どこかにたどり着いたことではありません。今は救われていないけれど、どこかに救われる時があるとしますと、まだ救われていない人にとって「ただ今」はいつでも未来の話になります。
「ただいま救われる」は文字通り「ただいま」であり、未来の事ではありません。それには、ただ今救う働きが、ただ今働いていなければ成り立ちません。その「ただ今救いの働きが働いている」ことを抜きにして、「いつかは救いの働きが私に働くだろうか」と考えるのは間違いです。

蓮如上人が「弥陀をたのめ」と言われるのは、「ただ今助ける」の南無阿弥陀仏のお働きにまかせよということですから、ただ今の救いの働きがある前提で言われていることです。

「救う働き」がある時やって来るではありません、そういうものを待っても何もやっては来ません。なぜなら、ただ今南無阿弥陀仏と働いて下さっているからです。視点を未来に向けているところには、ただ今救うの喚び声はなかなか耳に入りません。なぜなら人間は、想定をしていないものは見えなかったり、聞こえないことが多いからです。授業中にちゃんと起きていれば、自分の名前を呼ばれてもすぐに「呼ばれた」ことは分かります。しかし、全く知り合いもいない初めての土地で、自分の名前を呼ばれても、「同じ名前の他人が呼ばれている」と思ってしまいます。
未来の救いを想定していると「ただ今救う」はなかなか耳に入りません。未来の私が救われると思っている人には「汝を救う」も耳には入りにくいものです。

ただ今救うの南無阿弥陀仏をただ今聞いてただ今救われて下さい。