安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「如来の心を聞けるだけの自力の慣性がないままに、如来の心を聞くことはあり得るのでしょうか?」(1chさんのコメントより)

1chさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

1ch 2014/01/25 21:43
如来の心が聞こえてきない、現れてこないと、自力の慣性を聞こうとして、自力を働かせたくなります。

よければ教えていただけませんか?
如来の心を聞けるだけの自力の慣性がないままに、如来の心を聞くことはあり得るのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140124/1390552939#c1390653792

「自力の慣性がないままに」と言われていますが、「如来の心を聞く」のは、自力がなくなるのと同時です。その意味から言えば、「自力の慣性がなくなってから」聞くのではありません。救われる前から言えば、そのようにいえないこともありません。

口に名号称える、御文章をよく読む、それらが足りないままに、如来の心を聞くことはあり得るのでしょうか?(1chさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140124/1390552939#c1390653792

結論から言えば、あります。しかし、そもそも阿弥陀如来の本願は「足りないなにかを足したものを救う本願」ではありません。何も無いものをそのまま救う本願です。ですから、救われないのは何かが足りないからではなく、本願を疑っているからです。

名号を称えることの足りない、いわれを文章で知ってはいるけれどいわれについて説かれた御文章をくりかえしは読んでいない、そういう私です。(1chさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140124/1390552939#c1390653792

そんな「たりない私」を助ける為に建てられた本願です。その「たりないところ」は、全く気にする必要はありません。

称名といわれの観想の補強も経ることなく、そのまま、(私は探しても、自力の慣性として如来の心が、聞こえてこない、現れてこないです。そんな状況としても、)ただ今如来に救われることはあり得るのでしょうか?(1chさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140124/1390552939#c1390653792

これについては、前述の通りです。ただ今救われます。

如来の側からすると、私が称えずとも私に働いてくださっている如来の働き、音として聞こえないまま、そのままを頂くことはあり得るのでしょうか?
音として聞こえないと、如来の心を聞こえたまま、そのまま頂く、ということはあり得ないのでしょうか?(1chさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140124/1390552939#c1390653792

音としては、既に南無阿弥陀仏と聞いておらます。1chさんは、音として聞こえるかどうかにこだわっておられるようですが、そこにはあまり執着しない方がよいと思います。1chさんのコメントからすると、 なにかの音がきこえることを重要視しておられるようですが、今まで聞いたこともなかった音が聞こえたことが信心ではありません。それまで幾度となく聞いてきた、南無阿弥陀仏とその謂れを心得たのが信心です。