安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私は「ああ生きててよかった、本当にすばらしいいのちだ」と思ったことがありません。(略)そんな度しがたいお前だからこそ、如来のお目当てなんだ、とおっしゃるが、そう言われても全く自我意識くんは喜んでくれません。」(おとたんさんのコメントより)

おとたん 2016/09/11 00:43
 いつも拝読しております。ありがとうございます。
 私は「ああ生きててよかった、本当にすばらしいいのちだ」と思ったことがありません。
 私は、親鸞聖人の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄)から、「人格や思考は脳神経細胞の科学反応、物理現象であり、その現象は縁起や八識の働きで説明がつく。一切が識より表象された幻想である」ことを学びました。だから「人間の思考、認識される表象世界すべてがそらごとたわごとの幻想である。念仏だけが真実なのだ」と言えると思っています。
(中略)
 そして私の胃がおかしくなりそうなジレンマ。
 縁起とか無我とか、自己やいのちのはたらきの真理を聞いても、「世界や自己はそらごとたわごとですよ、念仏だけが真実なのですよ」と教えてもらっても、この私のまやかしの自我意識くんは、まったくその真理のことを喜んでくれません。
 聖人はその理由を「煩悩の所以」とされ、自分も同じだと言う。そう言われてもやはり自我意識くんは喜んでくれません。
 そんな度しがたいお前だからこそ、如来のお目当てなんだ、とおっしゃるが、そう言われても全く自我意識くんは喜んでくれません。
(中略)
 「南無阿弥陀仏=救い」まさしくそうだなと思いました。でも自我意識くんが喜んでいないので、この学びをご門徒に問い放っても、自分と同じ苦しい問いを渡すような気がして、私の法話などではその辺の学びについて話したことがありません。「そんな自我意識でいいじゃないですか、必ず往生させますよ」と如来様から言われているような気もするんですが、救われた気もしないし、うれしくもありません。
 浄土に往生し、成仏させていただける、そう思ってもうれしくないんです。その原因は、今の自分に満足しているからなんだと思います。
 時事と仏法を仕入れてそれを興味を引くように面白く語って、ご門徒に共感してもらったような気になっています。そこに充足感と優越感と自己肯定感とお布施を得て、満足して有頂天になっている、そういう自分だなぁと、なんとも矮小で不純な動機で法を学んでいます。
(中略)
 乱筆乱文ですみません。質問にもなってませんね。恥ずかしいことですが、聞いてほしかったんだと思います。このような長文してすみません。どうかバッサリ切ってください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160910/1473509206#c1473522229

長文なので、全文を御覧になりたい方はコメント欄をご覧下さい。
コメントを読ませていただきますと、真実を知って本当は喜ばねばならないのに、喜ぶ心がないということを悩んでおられるだと思いました。

文章の中では「自意識」と言われていましたが、その自意識が喜ぶか喜ばないかということを問題にしておられるようです。
しかし、おとたんさんの言われる自意識が喜ぶとは、「あー生きててよかった、本当に素晴らしいいのちだ」と思うことでしょうか。阿弥陀仏に救われた人が喜ぶのは、自意識の満足ではなく「ああ阿弥陀仏が居られてよかった、本当に素晴らしい本願だ、お念仏だ」という点です。

阿弥陀仏が私を救う目的は、私の自意識が「あー生きててよかった、本当に素晴らしいいのちだ」と感じさせるためではありません。どうしても自分の力で生死をを離れることができない私を、そこから離れさせる為に本願を建てられたのです。世の中の「救助」する人も、要救助者の窮地を救う為に救助するのであって、その人がどう感じるかはまた別の問題です。

コメントにありましたが、縁起とか、無我とか自己のいのちのはたらきの真理を聞いて喜んでいる人はあっても少ないのではないでしょうか。もしそのことを、あなたの自意識が喜ぶことを目標とされているならば、悟りを開く以外にはありません。しかし、さとりを開くような人はそのような拘りはもっていないでしょうから、結果的に自意識が喜ぶことはないということに成ります。

おとたんさんが、真実を知っているのに喜ぶ心がないということについては、考えられる理由は二つあります。
一つは、おとたんさんが救われていない。
二つは、おとたんさんに煩悩があるから。

一つ目については、解決としては阿弥陀仏に救われることです。それ以外にはありません。よろこべないのは、煩悩があるからではなく、阿弥陀仏に救われていないからということになります。
二つ目については、喜ぶべきことを喜ばせないのは煩悩のためですから、煩悩をなくす以外にありません。

結論としては、阿弥陀仏に救われるか、煩悩を無くすかの二択になります。法を聞くか、煩悩をなくすための行に励むかと言うことです。

しかし、文面からするとおとたんさんも、自分自身が救われているのかどうかは分からない状態だと思います。
自意識が喜べるとか、喜べないことを問題にするのではなく、阿弥陀仏の本願は私に働いてくださっておられるということを聞いて下さい。自意識が喜ぶかどうかではなく、阿弥陀仏が喜ばれるところを私が喜ばせて頂くのです。

最後に一言、「充足感と優越感と自己肯定感とお布施を得て、満足して有頂天」な話を聞かされる人のことを考えて見て下さい。私が元いた団体の会長はそんな人でした。