安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「43 現世祈祷と雑修」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

43 現世祈祷と雑修

追い追いと御話しを進めて参りました、雑行雑修ということに付いて。雑行というのは、行体の上の品柄であるから、浄土の行、即ち五種の正行の外のものは、残らず雑行であるゆえに、いかにも解りやすいようであるが。サァ雑修となると、能修の不至心より詮議して来ねばならぬのであるから。雑行そのままが、雑修であるばかりでない。たとい正行を修してはいても、助正兼行したり、現世祈祷をするようなことでは。すべて不至心の雑修となるのであります。夫れに引き換えて、至心信楽の人ならば、事柄や形式の上に、何程のことがあるにしても。場合に依っては、現世祈祷をしておるような人でも。忽ち雑修であるとは、決められんので。その辺はなかなか難しいことであります。


日清日露戦役のころには、この現世祈祷の事について。随分種々の議論が、真宗の学者間に起こりました。断然祈祷をしてはならぬという説もあり。又現世の禍福を強いて神仏に求むるは祈祷になるから、悪い事であるが。希望位の軽いことなら、祈祷でないから善かろうという議論もあり。又は自分のために祈るのは、雑修の失となれども。公衆の為に祈るは、差し支えないと決着した学者もあった。殊に可笑しいのは、御大典のとき、山陽地方に起こったしめ縄問題であります。その当時は、全国に亙って、祝意を評する装飾に付いて、お互いに工夫を凝らしたことであったが。その地方では、全戸しめ縄を張る事に決めたそうな。サァそれが真宗の家に障るとか、信仰にもとるというので、大騒ぎを起したことがある。その後に於ては、心霊治療が雑修になるとか、成らぬとかというて。歴々の学者間に、論義あったこともある。これらの議論は、多く徹底した信仰の持たない人々が。只聖教の文句に拘泥して、事相や形式の上をのみ捉えて、争い出したまでのもので。いかにも臆病犬が、遠吠えするような、嫌いもあったように聞こえました。


そこで先ず、現世祈祷を断然してはならぬという話しは。深く研究もせず、注意も払わぬ不親切極まる概論にして。更に耳を傾ける、価値もない話しであるが。その次に、強いて願うは悪いけれど、希望くらいの軽いことなら、差し支えないという話しも、随分解らん話しである。強い願いと、軽い希望という事は、何処等あたりで区別するのか。事の大小でいうのか、願う心の強弱で差別するのか、更に明瞭せぬことである。千万の願いは悪いが、十百位までは善いというのか。大煩いの願いは祈祷になるが、軽症の願いは希望に属するというのか。ただしは遊び半分に願うておるは善いが、本気出して願うは悪いというのか。何れにしても、五十歩百歩の論ではあるまいか。私の考えにすれば、無理に願おうが、そっと希望しようが。苟も神仏に対して、この世の事を求むる心のあってするものなら、同一の祈祷であろうと思われる。


尚その次に、自分の為に祈るは悪いが、他人の為に祈るは善いという話しも矢張り判然せぬ話しである。たとい自分の為に祈っても、その自分が天下公衆の為に尽くしておる、軍人等の如きものならば。自己の健在を祈るのが、そのまま公衆の為になるのではあるまいか。而も国家の為に戦勝を祈るような事柄でも。一方には敵国の敗戦を祈る訳になってあるから。帰するところは、自己の為の祈りであろうと思われる。全体自分の為に祈って悪いことなら、他人の為に祈っても悪いことであろう。又他のために祈って善いことなら、自の為に祈って善い筈である。しかし善導大師の法事讃には、皇帝の為に祈りを捧げ、宗師大師は、朝家の御ため国民の為念仏せよと。他のために祈らせられた例は、聖教にあるゆえに、差し支えはないが。自分の為に祈ったことは、聖教にないから悪いというか。それが所謂聖教かぶれというもので。他のために祈ったことは、公衆に示す必要があるから、文書にも残しておくべきものの。自分の為に祈祷したのは他人に知らせる用事がないから、文字に書き残さぬまでのことで。他人の為にさえ祈っておるものが、自分の為には、祈らずにおるなどということは、理としてあるべき訳でないことは。皆様も明瞭に、御判断の出来ることであろうと思われます。


尚この外に報恩行と思うてすればよい。とか祈り心を出さずに祈れとか不祈祷にして無祈祷に非ずとか。種々姑息の話しも、沢山あったようじゃが。私は不幸にして、これら学者の御話しには、とても充分の満足が出来ないので。どうしても、信心の有無に依って、決めるより外はないと思われます。至心の行者なら、時と場合に依って。何をしたとて、雑修となる気遣いはなく、若し至心の人ならば。事のするせんに係わらず、雑修の失は免れぬものと思います。