安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

念仏は往生の行とききますが、私が称える念仏はどうやっても自力の念仏になります。どうしたら、他力念仏(本当の念仏)になるのでしょうか?(頂いた質問)

念仏は往生の行とききますが、私が称える念仏はどうやっても自力の念仏になります。どうしたら、他力念仏(本当の念仏)になるのでしょうか?(頂いた質問)

自力の念仏とは、自分が念仏を称えることによって、今の念仏がまた違った念仏になると考えていることです。称えた念仏の結果として救われることを期待しているわけですから、私が今称えている念仏が往生の行であるということと、視点がそもそも異なります。
親鸞聖人は、念仏について「念仏成仏これ真宗」あるいは「大行」と言われています。

(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃)

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻)


「念仏成仏これ真宗」ですから、念仏が私を成仏させる働きそのものであると言われています。それに対して「万行諸善」は、その中の一つの行では私が成仏するような功徳はありません。また、万行諸善によってさとりをひらこうとすると、必ず行が現在または過去のことで、さとりは未来の話になります。


その仕組みを念仏に持ち込むのが、自力の念仏です。つまり、念仏一声では私を救う働きはないはずであるという前提があります。これがそもそもの間違いです。しかし、その前提があるから、念仏の回数を増やせばいいのかと考えて見たり、どんな心で称えたらいいのかと、念仏に自分の力、心を付け加えて、念仏に手助けをすることをもって何とか救われようとします。


また、その前提ではもう一つ大きな勘違いをしてしまいます。
それは、念仏はいま称えていても、救いは必ず未来のことになっている点です。
念仏を称えて、その結果として救いがやってくるという考えは、苦しい時の神頼みと同じ発想です。その考え方は、神に救いを祈る形ですから、苦しい現状に私が神に救いを祈り、その結果神が私を救うというものです。その状態では、「祈る」というのはあくまで「私の祈り」であり、「救い」は神からの救いであっても私の祈りの後にくるものです。


これはサイコロをふるようなもので、サイコロを「振る」ことと、サイコロで「何の目が出るか」は同時ではありません。ですから、サイコロを振る人は、どんな目が出るかどうかに一喜一憂しながら不安な状態で振ります。このように、未来の結果に目を向けてばかりいると、「祈る気持ち」や「不安」しかありません。
この話に譬えると、自力念仏の人は、念仏というサイコロを振って、いつかあたり(救い)「例えば1」がでるのを期待しているようなものです。しかし、サイコロで言えば一がでる確率は六分の一です。仮に100回サイコロを振って1がでないとして、「それでも次は1がでるかも」と思うのは間違いです。そんな時は、「このサイコロは1が出ないサイコロなのでは?」と疑ってみなければなりません。


阿弥陀仏が「念仏するものを救う」と本願を建てられているのですから、念仏する者が救われることは、サイコロを振って1が出る確率どころではありません。必ず救われることに成っています。
それなのに何回も念仏しながら救われない人がいるとすれば、貴方の称える念仏が間違っていると考えるのが適当です。サイコロで言えば、間違ったサイコロ、いわばイカサマのサイコロなのです。

では、「念仏成仏」といわれる念仏とはどんな念仏なのでしょうか?

それは「念仏」そのものが、「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり」とである念仏です。つまり、念仏は「阿弥陀仏に対する救いの祈り」ではなく「救いの働きそのもの」ということです。救いの働きそのものを、私が称えているということは、そんな念仏を称える私は救われるということです。

ただし、「そのように思えばいいんですね」と思うのは間違いです。なぜなら「そのように思って念仏すれば、救われるだろう」という気持ちは、「祈り」であって、サイコロを振って良い目がいつか出るだろうと期待している人と変わりません。未来の結果に目を向けて、今の南無阿弥陀仏に目が向いていません。


阿弥陀仏の救いの法(念仏)は、ただ今救う法です。ですから、救われる私も「ただ今救われる」と聞いて疑いないのが信心です。「ただ今救う法」を「ただ今救われる」と聞く人には、視点は常に現在です。「救い」を未来に置かないからそこで安心というものがあります。
念仏で未来に救われるとか、信心を決定すれば安心出来ると言う人は、常に未来の救いに祈るか、過去の自分の善根(または悪業)に囚われます。例えば、「これだけ疑いないのですから、早く安心させてください」と未来に心を向けたり「これまでの私の行為を振り返ればまだ救われないだろう」「これだけやって来たのだからもう救われてもいいはず」と過去に心を向けたりします。
お釈迦さまが言われるように、未来は文字通り未だ来ていないものです。過去は過ぎ去ったものです。阿弥陀仏がただ今救うと言われているのは、「未来に助けることを期待してね」でもなく「過去のあなたの功績によって救う」ということではありません。
ただ今救うという念仏を、過去にも未来にももっていかず、ただ今念仏し、聞いて救われてください。
阿弥陀仏の救いは、決してサイコロを振るような不確実なものではありません。どれだけ念仏しても自力念仏になるのは、サイコロを振るようなサイコロ念仏になっているからです。救いという結果は、すでにあることをただ今聞いて救われてください。