※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。
19 三信十念は衆生のため
「只只と聞かずに只がわかろうか。聞きえて見れば只の只なり。」
只の御助けなどということは、意味の取りようによっては、意外の間違いになることゆえに。やたらに只ただと、いわるる訳ではないけれども。
しかし只では助からんと思うていては、それこそまた大きな間違いになってくるので。本願の正意の解らんうちは只というても間違い、只でないというても 間違いである。御助けの腹底を聞き明かして見ると、全く只の只なりで。雑行雑修自力を捨てて、弥陀をたのめよ、親にまかせよと大せらるる有りだけが、只で助ける御慈悲の顕れである。その只の只で御助けくださるる奥底が、強ちに助ける、無理にでも助けるの思し召し。その無理にも助ける御手柄が、南無阿弥陀仏と出来上がり。いよいよ六字一つの御助けであったかと、只の御助けが我が物になったとき。心では至心信楽欲生とたのまれ。口では、乃至十念と称えらるるのである。
そうして見ると、ここに一つの不審が起こって来る。
成るほどよくよく聞いて見れば、弥陀の御助けはたのんでからでない、称えてからでない、只の御助けに違いない。その只の御助けが、南無阿弥陀仏と頂かれて見れば。たのみになるのは当たり前、称えらるるは自然の道理である。
然らば阿弥陀如来は、何故に最初から、只で助けるぞと、喚んでは下さらぬのであろうか。たのめとあるは只の思し召しであるの、称えよというは何にも要らんの御意であるとか。煩い説明を聞いてみれば、いかにも只のようにも思われることであるが。
ほんとに只の御助けなら、たのめよ称えよなどと仰せられずして。「罪はいかほど深くとも、只の只で助けるぞ。」と仰せられて下されたことならば。愚かの我等も迷わずして、只の御助けを頂いて、たのんで称えて安堵して。今ごろは極楽の裏門近く参っていたでのであったろうに。
御意には只の思し召しでも、御言葉にはたのめと仰せられたものゆえに、今迄たのむに難儀したのじゃ。真実只であることなら、たのむと称うるをやめて下さい。若し本願の三信十念が、改正できぬとして見れば、まさか只では助かるまい。サァ三信十念たのむ称うる、丸々やめて只の只で助けることに、本願の革命が出来ますか。ここが不審で堪えられん、サァ阿弥陀様如何で御座る。
阿弥陀如来は、知らぬ顔して笑うて御座る。経巻口なし仏像ものいわず、夫れは松澤に聞けと仰る。よって私は腹帯締めて阿弥陀如来に成り代わり、充分御答え致しましょう。
「元より弥陀は只の只、衆生のたのむや称うるは、一向此方に用事はない」「然らば三信十念を改正して、只の只と出来ますか」
「夫れは改正相成らぬ、たのむと称うるの二つはとても除けられぬ」
「夫れでは只ではないのでしょう」
「弥陀の手元は飽くまで只じゃ」
「只ならなぜに除けられん」
「除かれん訳は衆生にある、弥陀は元より只ではあるが、衆生に只というたなら、頂く衆生が泣かねばならん。弥陀の都合はどうでもよいが、衆生の都合のよいように、たのめよ称えよと喚んだのじゃ」
「是はけしからん、衆生の都合は只で結構。難題がましい三信十念弥陀に都合のないことなら、今日限りやめて下さい」
「折角都合のよいように、衆生のために誓うた本願。夫れほど困ることならば、弥陀は元より只じゃもの、今日限り只と改正してやろうか」
「それは有り難い、只と成りては大勝利。しかし口先ばかりで改正するというたとて、本願の御文面や聖教の文句に只とはない、是はどうして下さるる」
「やめて都合のよいことなら、松澤は如来の御代官、邪魔の文句は消してやる。御文でも何でも御持参なさい、私が書き替えてあげましょう。阿弥陀如来の仰せられけるようは、末代の凡夫罪業の我等たらんもの、罪はいかほど深くとも。我を一心にたのむ。これが皆様之邪魔になるのじゃ、そこで一心にたのむというところへ、墨を塗り、夫れを只と改めて。罪はいかほど深くとも、只救うてやると仰せられたりと、して上げよう」
「夫れは中々有り難い」
「ヨシヨシ末灯鈔も御持参なさい、弥陀の本願と申すは、名号を称うるもの、とあるのが皆様の御気に障るから。是も只と書き替えて、弥陀の本願と申すは、只極楽へ迎えるぞとしてやろう」
「ソーなれば誠に気楽のことになり、望んでもない尊いことである。どうぞ書き替えを願います」
「夫れは確かに引き受けた、いとも容易い御用である」
しかしお聖教に墨を塗ってしもうては、中々取れませんから。墨を塗らない前に、皆様に念を入れておかねばならぬ事がある。夫れは何であるかというに。御望み通り、今日から只としてやるうえは。なんぼ助けて貰うても、必ず只にしておいて。皆様もたのまずにいて下さいよ、きっと称えてはなりませんぞ。
サァ、ここは皆様どうなさる、たのまずにおれますか。称えずにすみますか。ソレソレ早やそこらに称えて御座る、何ということですか。只として貰うたのに、なぜ御称えなさる。その称うるとたのむが邪魔になるというて、私に墨を塗らせておいて。あなた方は勝手にたのんで称えて御座っては。私は丸で詐欺にかかったようなもので、阿弥陀如来に叱られます。
弥陀が五劫に工面して、建てた誓いに抜け目があるか。汝が墨を塗ればとて、衆生は心でたのみとし、口では称えておるがヤイ。馬鹿な松澤、代官免職申し付けると相成っては、私は殆ど困ります。サァ皆様たのむ称うる墨塗りますか、やめられますか。二つ一つの返事が聞きたい。返事どころか皆様方は呆気にとられて、ぼんやりとした顔して御座る。
ここまで御話しを進めてゆけば、如何なる御方も本願の正意が御解りになりましたでしょう。弥陀が助ける都合が悪いで、衆生にたのめと言うたじゃない。弥陀はもとより只の只、只で助ける御手柄が、衆生に届いた上からは。たのむまいぞと言われても、たのみに衆生がするゆえに。只と言うては衆生が困る、困る衆生に難題かけぬ。其方の都合のよいように、我をたのめと喚んだのじゃ。
称えよというも同じこと、黙って来いと言うたなら、参る衆生が泣くゆえに。たのんだ上は、乃至十念、数に決まりは付けてない。思いのままに称えよと、喚んだも衆生のためじゃのに。斯かる御慈悲と知らずして、たのみ心や称えぶり、難儀したのが恥ずかしや。
只で来いよの誓いなら、夫れこそ我等は困ろうに。只でおけない私の胸、見抜いたうえの御本願。たのめとあるも私のため、称えよというも私のため。三信十念ことごとく弥陀に用事は更にない、私のためであったかと。夜明けの出来た上からは、たのんでたのむに用事ない、称えて称うる気にかけず。信行共に御助けの、一人働きであったもの。報謝の経営これ一つ、我が身に油断のないように、王法仁義を初めとし。家内眷族睦まじく。後念の日送り致しましょう。