安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「17 自力気違と他力気違」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

17 自力気違と他力気違

 朧月夜に知らぬ郊外を、初めて散歩して見ると、先方に人が立っておる。一人は男子で一人は妙齢の婦人のようだ。是は何ぞや秘密話しをしておることであろうかと、早や悪いところへ気を回し。段々近づいて見たれば、こはいかに、丸で人間ではなかった。杉子が日本生えていてあったのである。


 迷うて見ておるそのときは、どうしても人間のように見えたのが。それが杉子であったかと、正体を見つけた上は。もう一度人間の形にして見たいと思うて。元の場所まで立ち戻って眺めて見ても、二度と人間とは見る事が出来なくて。こんな確かな杉子をば、先ほどはどうして人間と見たじゃろうと、我が身ながらも恥ずかしいぐらいのことである。


 迷うていたときと、悟ってしもうたあとでは、全てのことがこのようなもので。殊に信仰問題にとっては、尚更ありがちのことである。
 
 自力疑心の朧月夜に、迷うて眺めておるときは。どうしても、たのむや称うるが、御助けの条件のように見えたのが。いよいよ負からん一つの御助けが、南無阿弥陀仏であったかと。一度他力の正体が解って見ると、三信十念只の只。世話のいらない御助けの、働き一つの顕れであったのに。それを今まで条件のように、思うていたことの勿体ないやと、廻心懺悔の外はないのである。


 然るにこの絶対他力の只の只、負からん一つの御助けの正体が、南無阿弥陀仏である、ということを知らずして。たのめ助けるの仰せじゃもの、只で助かる訳はない。乃至十念の御誓いじゃもの、どうして只で助かるものか。と飽く迄只では駄目じゃと、執着をして御座る御方は。丁度耳の穴に栓をして、大悲の入り口を塞いで仕舞ったようなもので。いつまで聞いて御座っても、他力の信水の心に入る時はありません。


 徳利の口を、しかと塞いで仕もうたものなら。たとえ酒の中へつけておいても、一滴入る道理はない如く。大事な他力の入り口を、只では駄目じゃと、自力の栓をして塞いで仕もうては。百年御座につかっていても、他力の御酒のしみ込む訳はないゆえに。


 只では駄目じゃと思うて御座ることならば。一層のことに、寺参りはおやめなされてはいかがです。悪い御忠告は致しません。どうせ堕ちることなら、寺参りをやめて仕もうて堕ちた方が、あきらめがついて御得でありますよ。


 死ぬが死ぬまで、後生大事と参っていて。只では駄目じゃと、自力の栓の取れなんだばっかりで。他力不思議を頂きかね、最後に堕ちて仕もうては。ほんとに後悔が百倍も増しますゆえ、無宿善なら仕方はないが、宿善開発の皆様は。只では駄目じゃというような、定散自力の栓をぬきすて。只で助かる本願の正意に、落ち着きの出来るまで聞いて下さい。


 かくの如く飽く迄只の只の御慈悲じゃ、負からんものは御助け一つじゃと御話しを進めて行くと。今日まで、只では駄目じゃと心得て御座る御方々は、増々不審が起こって来て。
「その様にたのむも要らず、称うるも要らず。只の只で助かる程のことならば、寺参りも要るまい、聴聞も要るまい、家に寝て居ても助かることになるであろう。」
と極端のところまで難問を、はなちならることであろうが。私はその様な難問には、ビクともせん、拙者も極端を以てお答えして。
「誠にその通り、参るも聞くも、いりません、家に寝ていたくば、勝手に寝ておいでなさい。」
と言い切ります。


 かく言うたら皆様は、いよいよ驚いて。
「是は何事ぞ!後生を大事に思え、仏法を尊く思え、聴聞を心に入れよ。と善知識はしきりに御催促なさるるに。たのむや称うるは要らんというは兎も角も、寺参りも聴聞も要らんとは何事ぞ。家に寝ていてよいとは、実に恐れ入った話しである。」
と仰せられようが。


「何にも恐れ入らないでもよろしい、参るが厭なら御参りはおやめなされ、寝ていたくば寝て御座れ。」
「是はけしからん寺へも参らず、説教も聞かず、家に寝ておる者が、それで助かりますか。」
「何じゃ。それで助かりますか!いらぬお世話をされますな、助けるは弥陀の御仕事です。弥陀は見事に助けてみせます、寝ていたくば、勝手に寝て御座れ。」
「是はいよいよ驚いた、丸で松澤は気違いじゃ。」


「皆様から気違いと言うて貰わないでも、私は確かに気違いです、気違いちもいろいろある、色気違い、欲気違い。私は真実他力気違いです、他力も他力も絶対他力の気違いです。」
「オォ自ら気違いと名乗って御座る、いよいよこんな坊主の説教は聞かれん。」


「聞かれんなら御聞きなさるな、聞いてくれとは頼みません。只では駄目じゃと思うて御座る御方は、自力気違いに相違ない。自力気違いと、他力気違いの寄り集まりじゃもの話しの合おう道理はない。
 禅宗の和尚さん、彼岸の中日に托鉢に出かけ、オーオーとある家の前へ立ちかかった。その家の主人は貪欲者で、出ませんぞ、御通りなされ、と断った。和尚はこの家の主人は気違いじゃと言うた。主人は非常に立腹して、この坊主!私を気違いじゃとは何事じゃと怒鳴りつけた。和尚は更に驚かぬ。私は貰いたいの気、主人はくれとうないの気。貰いたいの気と、くれとうないの気と、気が違うから気違いじゃというた。
 私は只の只の他力の気。皆様は只では駄目の自力の気。是も気が違うから気違いに相違ない。」
 気違いと気違いの相談では、とても話しの落着はつかぬ。皆様からも一休して考えてみて貰うた上のことにしましょう。