安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「9 三信十念不審の数々」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

9 三信十念不審の数々

全て何事でも根本から聞かんと誤りが出る。安心上のことはなおさら、根本が大事じゃゆえ祖師聖人も。

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし

と仰せられて、根本が定まらねば末の解ろう道理はない。


 先ず雑行雑修を捨てると言うことについても。これで廃ったか、廃らぬかと、捨てる手元に苦心をして、御座る御方は沢山あるが。捨てよと仰せられた、根本から聞こうとかかる人は甚だ少ない。なぜに雑行を捨てよと仰せられたのか、雑修は如何なる訳で御嫌いならるのか、自力疑心もその通り。捨てる晴れるは後にして、仰せの根本から聞かねばならぬ。罪や障りがあってさえ、助けてくださる弥陀様が、自力ぐらいは有っても御差し支えはあるまいに、自力を捨てよと仰せらるるは何故か。


 子どもが疑っていても、抱き上げる親の邪魔にはならんのに。衆生の疑いが、助ける弥陀の邪魔になるとは、どういう訳か。と根本から聞いて聞き明かすと、捨てる晴れるの世話なしに、雑行も廃り、疑いも晴れるのじゃ。


 今たのむも称うるも同じことで。たのむ手元や称うる口を後にして、喚んで下さる本願の、根本から確と聞かねばならぬ。然るに兎角世間の人々は、たのめ助けるの仰せじゃもの、たのむ一念がなくてはすまんと。末のところに力を入れ、たのみ心に世話を焼き。たのむに三義の候の憑頼恃怙の四字のうち、どの字でたのむつもりじゃの。と義理や理屈でなで付けて、安心製造するゆえに、聞いたが聞いたにならぬのじゃ。


 どうせ聞く気で聞くならば、先ず本願の腹底へ、動かぬ疑問を突っ込んで。
「それほど迄の親様なら、なぜ我をたのめなどどいうて下された。」
と福野の少女の聞いたのが、実際真面目の聴聞じゃ。それが聞こえてしもうたとき、真から底から世話いらず、信心獲得ができるのじゃ。よってこれより私は、福野の少女に同心して、第十八願のその上で不審の数々を述べて見ましょう。

  • 一 三信と十念たのむと称うるということが、たとえ他力廻向の御与えものであるにせよ。衆生の手元に於いて実際二つ揃わねば、御助けは出来ぬのであろうか。
  • 一 三信十念、二つ揃わねば、往生が出来ぬものならば。たのむ一念のとき往生一定ということは、虚偽(うそ)なのであろうか。
  • 一 実はたのむ一念のとき、往生が定まってしまうので、後念の称名は、あってもなくても、往生に差し支えのないものならば。本願の乃至十念は、あってもなくてもよい贅物を御誓いなられてものであろうか。
  • 一 乃至十念の称うるということが、若しあってもなくても、往生の邪魔にも多足にもならぬものならば。衆生称念必得往生と仰せられ、称うるばかりで迎えとるという御勧化は、虚偽なのであろうか。
  • 一 若し称うるばかりで迎えとるの仰せが、虚偽でないものならば。蓮如上人が、ただ称えては助からざるなりと仰せられたは、余り勝手過ぎる御勧めではあるまいか。
  • 一 本願の上では、たのむと称うると二つ揃えて誓ってあるが。善知識の御化導へ来ると、能信能行の場合は別物として。所信所行の勅命を、知らせて下さるる場合に於いては。必ずたのめよの仰せ一つか、若しくは称えよの、御勧め一つで。たのんで称えよの勅命じゃぞと、二つ揃えて御化導下されてないのは、どういうわけであろうか。
  • 一 思いきって三信十念除いてしまい、たのむも称うるもやめてしもうたら。若不生者の御誓いは、つぶれるものであろうか。


 右の通り凡そ七箇条の不審を並べてみたが。要するところは、たのめばよいのか、称うればよいのか。二つ要るのか、一つでもよいのか。たのむが重いのか、称うるが軽いのか。こんなことなしでは、とても助からんのか。なくても実は助かるのか。それがしっかり聞きたいのじゃ。皆様は、この辺のところが、明瞭に分かっておりますか。
 
 私は素より学問沙汰や法門沙汰では、とても御話しは出来ませんが。ただ信仰上から、そろそろと御話しをして見ましょう。これは至って大切のところであるから皆様も充分に聴聞に心を入れて下されたい。

続きます。