安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「8 それほどまでの親様なら」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

8 それほどまでの親様なら

 引き続いてお取り次ぎに及ぶ、本願の思し召し。衆生往生の正因を誓わせられた、第十八願の上において、二つの願事がある。
 
 
 その三信の方から、若不生者と喚びかけて下されたのが、たのむものを助けるの勅命で。十念するものを、生まれさせずばおかんと仰せられたのが、称うるものを助けるの勅命。
 このたのむものを助ける、称うるものを助ける、という二つの勅命は、正しく果上の勅命であるが。その喚んで下されたの、因位の思し召しから聞いてみると。あながちに助けて下さるるが、彼尊のはらわたで。衆生がたのもうとたのむまいと、称えようと称えまいと、無理でも槍でも助けて下さるるということは、前席にくわしく御話し致しました。
 
 
 そうしてみると阿弥陀如来は、彼尊の御心と御言葉とが。どうやら齟齬しておるように思わるる。
 世間の諺にも「嫌と冠りを縦にふる」と言う如く。口にいやじゃというてはいても、冠りを縦に振ったなら、心では承知はしたものじゃ。心で承知しながらも、いやじゃといわにゃならんのは。人目を憚る裏表、かけ引きのあるときのこと。
 今阿弥陀如来が我々衆生を助けるに、かけ引きなどのあるべき訳は更にない。かけ引きのない親様なら、心と言葉を違わせず。無理にも助ける弥陀じゃぞと。なぜに呼んでは下さらん、わたしゃお俊でなけれども、聞こえませんよ阿弥陀様。御言葉無理とは思わねど、たのんで来いとは強欲な。ほんとに助ける御慈悲なら、称うるものとは嘘なのか。嘘が表で誠が裏で、裏と表があるならば。あるぞと早く明かしなさい、明かして聞かせて貰うまで、安堵の出来ぬ私の胸。安堵の出来るそれまでは、サァ皆様も聞きましょう。


 これについて私が、大正四年六月の中旬、越中福野の教願寺におりましたとき。なんともかとも、答弁できぬ質問に、あって困ったことがある。全体何程の質問を受けても、答弁の出来ぬということは決してない筈のものである。
 
 越後の大島というところに阿耨多羅婆というあだ名をとった。妙な婆がありました。
 この婆はお寺さんの顔さえ見ると。阿弥陀経の中に阿耨多羅三藐三菩提とあるは、どういう思し召しでありますかと質問し。不学の坊主を困らせる癖があったので。遂に阿耨多羅婆といわるることになりました。


 私は素より不学でも、こんな質問なら百人来ても、答弁に困るようなことはありません。何と答えるかといえば、私は知らんと答えます。「知らざるを知らずとせよ、これ知れるなり。」で、知らんことを知らんと答えるほど間違いのない答えはありません。それを知った振りをしていようとするから。知らんと答えが出来かねて、自分で自分が困るのじゃ。もし知っておる人ならば、阿耨菩提とは無上正遍知の梵語でありる。無上正遍知とは仏の悟りのことじゃ、と答えるがよし。全く知らんことならば、奇麗に知らぬと答えるがよい。
 
 その知らんと答える奥の手を、弁えておる我々には。如何なる質問にあっても、答弁の出来ぬ訳はないはずじゃに。私が福野で受けた質問は、到底知らんと答えることができないので。しかも即座に、明瞭に答えることも出来ぬ。さりとてそのような質問に答弁する必要はないと、はねつけることも出来ない、しかもそれが奥深い義理や法門でも、持ち出してきたことならいざしらず。誠に平易な簡単の質問にあって、私は全く平行してしまったのじゃ。そもそもそれは何であったか。
 
 
 教願寺の私の座敷へ五六人の同行が来て、いろいろのお話をしておった。その中に、十四五歳ばかりの小さい娘が一人おるから。誰ぞに連れ添って来ておることと思っていた。然るに話はすんで、他の同行は皆立ち去ってしまったが、少女一人は居残って何となくもの足らぬような顔をしておるから。
「お前もなんぞ尋ねたいことがあるのか。」
と試みにいってみたらば。
「ハイ」
と返事に重りがある。
 これは驚いた、こんな少女が何を聞く気でおるのかと、多少侮る気分をもった私は。
「サァなんなりと聞きたいことは、遠慮はいらん、御尋ねなさい。」
と申したれば、少女は可愛らしい口元を開き。
「阿弥陀如来という御方は、ほんとうに、私等を可愛がって下さるるのでしょうか。」
と尋ねたので、私も少しは可笑しくなり。解りきった、つまらんことを聞くものかな、ここら当りが少女相応の不審というものか。イザ聞かせてやりましょうと。仏心とは大慈悲是也というところから説き出して、諸苦毒中の御難儀から、忍終不悔と命がけに遊ばしたへんまで説き明かし。涙の出る程、有り難い御慈悲の有りだけを、いうてしもうたが。少女は一向嬉しげな顔もせず、ただ俯いて聞いておるかたちに、ビリともしたる様子がない。あまりに少女の感じが無さすぎるので、私も少しは苛立って。
「どうじゃ娘さん解ったかい、大慈大悲の親様じゃぞや。お前を一人子よりも可愛い可愛いと思し召す、真実誠の親様に、嘘や掛け値のあるかいな。」
と励声一番やりつけたところが。少女はいかにも残念らしいかたちをして、声まで少し曇らせて。
「それほどまでの親様なら。我を一心にたのめなんかいうて下さらねばよけれども…………。」


 この一言に猛りきったる私もギャフンとやられてしまいました。丁度落とし穴へ入れられて、上から盤石でおされたようなもので。ウンとも、スンとも、音も返事も、出されるものでなかったか。
 
 皆様よここでなんと答えたら、今の少女に明瞭に会得させることが出来るでしょう。これこそは知らんと答えることは出来ず、その様な質問は、するに及ばぬとも申されず。まさかたのむ一念は、要らぬのじゃともいわれまい。然らば思いきって、此の世の親と阿弥陀如来は大違いじゃ。此の世の親は頼まんでも助けてくれるが、阿弥陀様は衆生が一心にたのまんうちは、御かまいなららぬと聞かせるか。それではいよいよ少女の不信をつよめて来て、人情はずれ法はずれの親様となってくる。丸で一時の血の迷いで、あの子可愛いと思ってさえ。たのめば逢ってやるたのまねば捨てておく、というような事のないのが人情じゃに。たのまにゃ助けんという人情はずれの仏なら。この世の親に譬えるなどは勿体ない。
 
 そこで話を持ち替えて、一心に弥陀をたのむというは、此方で心配してたのむのでない。阿弥陀如来が衆生のたのみ心まで、南無の二文字に成就して。それを与えてたのませて下さるのじゃと聞かせるか。これは世間普通の説明じゃから、聞きなれて御座る御方には、解っても解らんでも、それで苦情はあるまいが。真剣勝負に聞きに来た。今の少女にはとても解らん。少女が解らんばかりでない、私も一向解り申さぬ。衆生のたのみ心など、何のために御成就なされたのか。助ける法さえでき上がったら、それで彼尊は御満足であるべき訳じゃ。衆生の手元でもその通り、たのむ一念などは下さらずとも。助けてさえ下さるれば、それで慶悦至極である。
 
 然るに煩わしく、たのむ一念などを成就して。下さる彼尊は骨を折り、頂く衆生にうろつかせ、何の所詮もなくことじゃ。たのむ一念に往生の定まるものならば、称うるだけはやめてほしい。たのめの仰せ一つでさえ、福野の少女は泣いておるのに。
 
 その上称えよと聞かせたら、少女は叫ぶに違いない。しかし乃至十念は、報謝の行を誓ったものじゃから。それほど耳に障るなら、称うるだけはまけておくというか。それでは、いよいよ解らんことになってくる。
 
 衆生往生の正因を誓わせられた本願に、報謝の約束までしてあるとは何事じゃ。殊に阿弥陀如来は、若不生者不取正覚と助ける文句を後にして。乃至十念の礼物を、先取りなさる御誓いなら、吝嗇仏と言わねばならぬ。サァたのめよ称えよの弥陀の勅命、疑團そもそも湧くがごとし。