安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏はただ今助けるといわれている」と聞きますと、ではそれを聞いた私はどうしたら助かるのでしょうか?(頂いた質問)

「阿弥陀仏はただ今助けるといわれている」と聞きますと、ではそれを聞いた私はどうしたら助かるのでしょうか?(頂いた質問)

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の本願が成就して、私に対して『ただ今救う」と呼びかけられる「本願招喚の勅命」だと親鸞聖人はいわれています。

その「ただ今救う」の仰せを、そのまま聞いて疑い無いことを信心といわれます。そこで、「助ける」の仰せを聞いてから助かると思ってしまうと、頂いた質問のような疑問が出てきます。

私も「聞いたのが信心」「聞く一つで救われる」と聞いていたので、「聞く」と「救われる」を分離して考えていました。なぜなら、実生活上のでは、どれだけ慈悲深い人が、困っている人に「ただ今助ける」と呼びかけても、実際に助ける為の実行はそのあとになるからです。


たとえば、事故にあった人が、救急病院に搬送され、手術室に入ったとき、担当の医師が「今助けるから頑張って下さい」といった場合を想像してみてください。この場合、医者が「ただ今助ける」といった言葉と、実際の医療行為は別物です。ですかち「助ける」の言葉と「助かる」の間には必ず時間差があります。また、言葉が先で、実行は後になります。


その感覚で阿弥陀仏の本願を聞くと、「南無阿弥陀仏(ただ今助ける)」と聞いても、納得できないのは当然です。もし、南無阿弥陀仏が「ただ今助けるから、少し待っていなさい」という仰せなら、「待っていれば『助かる』身になるのだな」と安心すると思います。なぜなら、今まで書いてきた通りで、「助ける」という「言葉」と「助ける働き」や「実際助かる」ことは別物だという考えと一致するからです。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のただ今助けるの名乗りであり、名前です。その名(言葉)と、実際の助ける仏の体は全く別のものではありません。名と体と二つあっても、分けられないので名体不二といわれます。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。(安心決定鈔
浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1386)

http://labo.wikidharma.org/index.php/安心決定#P--1386

ここに名体不二という言葉が出てきます。南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が本願を建てられ、その後兆載永劫の行をされて、本願が成就した相です。ですから、その南無阿弥陀仏は、名前(言葉)であると同時に、助ける働き(体)その物でもあります。

ですから「ただ今助ける」の仰せが、そのまま助ける働きとなります。「助ける」と聞いたのが「助かる」となります。

日常では、助けるの声と、「助ける働き」は別物ですが、南無阿弥陀仏は聞いたまま、称えたままが救われるということになります。そう聞いて疑い無いのが信心であり、救われたということです。