安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編 松澤祐然述「2 撫でるも叩くも親の慈悲」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

2 撫でるも叩くも親の慈悲

お集まりの皆様には。斯かる忌まわしき聴聞の間違いは、おそらくはあるまいと思いますが。しかし斯かる邪見の同行は、世間には随分あることで。


ちょうど振る舞いのお膳に向かったお客様が。茶わんの中から、一粒の籾をつまみ出し。
コリャこの籾を客に食わすとは何事じゃ、籾を人間が食われるか、これは鶏の食べ物じゃ。こんなものを食わせる、ここの主人は、我々を殺すつもりに招いたのか、
と力んでおる狂人も同様である。

もしや間違って、籾が混じってあったなら。そっとお膳の隅へのけておき。およばれできるところだけ、よばれて来るが、客たるものの道である。


布教者が実際間違って言ったものとしてみても。それを脇へのけておき、いただけるところだけ頂いて。手強い御慈悲に満腹して、下向するのが、如法如実の御同行と申すものである。

貞信尼が存命中に、あちこちと御参りする様子を見ておると。大学者の御説教をなさるときも、又拙寺の役僧の書き付け法談するときも。更に変わった様子もなく、共に歓喜の色を湛えて聴聞しておるので。私は不審に思い、問うたことがある。

『貞信さん、お前さんは、どなたの説教を聞くにも、嬉しくてならんというような顔をして御座るが。誰の説教も、同じ味わいに頂かれますか。』
と申したれば、貞信尼は。
『御説教のお堅いところは、とても頂かれませんが。どなたの御説教に参っても、阿弥陀如来の御勅命、南無阿弥陀仏に、かわりはないので。たのめよ必ず助けるぞと呼んでくださる御一言を聞かせて頂くたびごとに。身の毛もよだつほど、嬉しう御座ります。』
と答えられたので、さても仰信の人の聴聞は、又格別のものかなと、驚いたことがありました。

なるほど義理や法門を脇へぬけ、勅命一つを持ち替えず。そのまま頂いて、喜んでおる身にとっては。大学者の説教も、御小僧さんの説教も、何の変わりのあろう訳はない。しかしこれらは、無我の信仰に入りたる貞信の如きものでなければ。中々その様の味わいに、なられるものではなけれども。兎も角もお互いお互いは、斯かる貞信の無我の聴聞を手本として、前席の同行のような邪見の淵へ、夢にも陥らぬよう。ひたすら心がけて頂きたいことであります。


そこで某布教者は、実際にたのむはいらんと申されたか、申されぬか。たとえ言われたものとしても、いかなる訳で、たのむも信ずるも要らぬなどと、いわれたものか。人様のことは解らぬ上は、邪見の同行の尻馬に乗り、是非も究めず、いたずらに、人を攻撃するような。愚痴の御話は、御免蒙るとして。この私にとっても、ある場合においては、たのむも要らぬ信ずるも要らぬ。というて見たいことがある。

そのある場合というは。第一に自力頼みをしておる人の間違いを正してやるとき。第二には親様の真実ありたけを届けて、他力たのみをさせるときである。


まず第一は、皆様もご存知の通り。当流は元より信心為本で、たのむ一念が肝要に違いはないが。その肝要と御勧めなさるるたのみ心は。自力頼みを言うのでない、元より他力だのみを御勧めなさるのじゃ。

然るに浄土真宗の人々が。口では他力他力というてはおるが。心の内ではたのむ一念に骨を折り。彼やこれやと心配し、この思いあの心で、と難儀して。教えてもらったり、直してもらったり。工面工夫の有りだけして、やっとのことに出来上がった。たのむ一念であったなら。それはダメ、それはいらぬ、それはお捨てなさい。そんなたのむ一念なら、あって迷惑、なくて仕合わせというものである。


西へ向かっていかねばならぬ人が、東へ向かって走っていたら。寝ていたときより、余程悪うなったので。そのような方角違いをしてをる人は。何とも致し方がないゆえに。まず差し当たり、走ることを止めてもらわねばならぬ如く。
他力にむかわにゃならぬ宗旨の人が。自力頼みをしていながら。知らずに迷って御座ることでは。まるで一座も聞かん人よりは、余程悪う傾いておるのである。そのような人には、何と導く法がないから。まず取り急ぎ頼む一念を、止めさせて、かからねばならぬのじゃ。


撫でて育てるばかりが、親の慈悲というものではあるまい。時によっては、可愛い我が子を、叩きつけねばならぬこともある。
撫でたときが、可愛いので、叩いたときが憎いというのではない。可愛いと撫でる親の手で、叩く道理はなけれども。捨ててはおけぬ我が子の行儀、直してやりたい真実の。慈悲で固めた親心、撫でて可愛い時よりも。叩いたときの可愛さは、涙とともにやるせがない。


今もちょうどその如く。たのめの御意のあるなかに、たのむ一念不要ぞと。いわるる道理はなけれども、捨ててはおけぬ未来の大事。たのみ損じてござるのを、直してやりたい老婆心。たのめたのめと言うよりも、百倍増してつらけれど。たのむは要らぬと叩かにゃならぬ。

叩いた親を恨むのは、親の情けの解らぬのじゃ。たのむは要らぬと叩かれて、叩いた人を謗るのは。弥陀の御慈悲が解らぬのじゃ。
御慈悲のありたけ聞いてみりゃ。たのむたのまんさておいて。逃げても逃がさぬ御手柄を。南無阿弥陀仏と成就して、呼んで届けて下された。六字が摂取の御手じゃもの、たのむまいぞといわれても。たのみになって、力になって。なってなってなり過ぎて。過ぎた余りが口へ出て、申す念仏のありたけまで己が仕事であらばこそ。心行ともに世話要らず、他力ずくめになったのが。一流安心のすがたである。