安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「47 鼠小僧の仮喩」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

47 鼠小僧の仮喩

暑さの中を厭わず、善うこそ御参詣下さいました。
かかる厳しい暑さの中に、田や畑で汗をながして、難儀しておる人々は、五十年か六十年のこの世の利益に過ぎないのに。御集りの皆様方は、畳の上で無量永劫の大利益を、させて頂くこの御座なれば。何卒暫くのところは辛抱して、心静かに出離の大事を聴聞して下されたい。

さて上来説き去り説き来り、御話しを尽くしました、本願他力の不思議のお手柄。造悪不善の我等凡夫が、僅か六字の名号を聞信する一念に、正定不退の身の上となり。命終われば無上涅槃の御証を、開かせて頂くとは、心も言葉も絶え果てた絶対不二の勝法は実にこの南無阿弥陀仏の六字にして。この六字が我が機の上に保たれて見れば、我が機たづねて信相を出さずとも。保つところの仏智不思議の働きで、自力も捨たり弥陀もたのまれ、安堵も決定も往生も、六字一つで不足はなかったと、皆様も満腹ができましたか。


それに付いて私は、日頃から思いますには。全体阿弥陀如来が、我等を助けて下さるる、絶対他力の御手際は。まるで鼠小僧が、泥棒をするような形ではあるまいか、と考えておりますので。大事大悲の仏様を、泥棒などに喩えることは、誠に申し訳のないことなれども、絶対不思議のお手柄は、何に譬うるものはない。いかにも鼠小僧のように、思われて叶いませんので。粗造の言語は暫く耳を塞いでおいて下されて、兎も角も私の信仰の迸るところを、一応は喋らせてくだされたい。


昔鼠小僧という泥棒がありまして、この奴至って悪い泥棒で、尤も泥棒に善い泥棒のあろう訳はなけれども。この鼠小僧に限っては分けて困った泥棒でありました。その訳は、この鼠小僧魔法を使うことが上手で、五尺余りの大男が、戸締まりの厳重にしてある人の家へ、忍び込むことは容易ではない。そこで彼は魔法を使って、忽ち二十日鼠という、小さい鼠になることを知っておる。さあ二十日鼠に相を変れば、いかな家でも忍び込むことは容易いので、雨戸の節穴からでも這入られる。忍び込んだはたった一匹の鼠なれども、この鼠ただの鼠にあらず、鼠小僧の化物なるが故に、猫に捕るる気遣いはない。猫に捕れぬばかりかや、この鼠に忍び込まれたら大騒動。家内中に貯へてある、金銀財宝残らず奪い去られてしまう、サテモ諸人を困らせた、泥棒が鼠小僧であったという。


今御譬へ申すは甚だ勿体ないことなれども、阿弥陀如来が我等を助けて下さるる絶対のお手柄が、いかにも是に似ておるので。阿弥陀如来は、五尺や一丈の仏でない、観経の上から伺うて見ても、六十万億那由他恒河沙由旬という、広大の御身体では。迚も煩悩具足の戸締り強い我等が胸へ忍い込むことが出来ぬゆえ。鼠小僧は魔法を使う、阿弥陀如来は魔法使いの大奇術。仏法不思議の有丈を御使いなされ、六十万億の御身体の、光明相好その侭に、相を変えて下されたが、南無阿弥陀仏の御名号。


サア六字に化て下されては、いかなる五障の女人でも、五逆十悪の戸締りたしかな凡夫でも。節穴よりもまだ小さい、耳の穴からチョロチョロと、貪瞋煩悩の腹底へ、聞其名号の一念に。信心歓喜と忍び込むことが自由に出来る。忍び込んだはたった六字の小鼠なれど、この六字ただの六字ではない、阿弥陀如来の化物なるが故に。三毒五欲の猫に捕られる気遣いはない、猫に捕れぬ計りかや。この六字に忍び込まれたら大騒動我等が身代一時に奪い取られてしまう。


我等が身代とは何であるか、無始より以来造りと造る悪業煩悩是ぞ我等が迷いの身代。この身代に不足がなかったればこそ、地獄へ行くにも餓鬼になるにも、費用に倹約はいらぬので。三界二十五有界、何処に迷おうと、何時まで逗留していよと、自由自在であった身が。聞かねばよかったが聞いたが罰、なんぼ聞いても聞こえた六字が生きた仏の化物でなかったら、こんな騒ぎにもなるまいに。


無始より以来造り重ねた悪業煩悩の迷の財産一時に消滅し。我等が承知もせぬうちに、悉く奪い取られて仕まうて見れば。困ったも弱ったも是非に及ばず、迷いとうても沈みとうても、その雑用が更になく。迷うに迷われず、沈むに沈まれず、何ともかんとも仕方の尽きた有様が、正定不退の相である。


ソコデ鼠小僧と阿弥陀様、善と悪とは大違い、仏法と魔法と天地の別はあるけれど、その手段方法に至っては、いかにも似ておる所がある。皆様も甚だ御聞き苦しうは御座ろうが、もう少し御話しをさせて頂きたい。鼠小僧は困った泥棒であったかなれど、阿弥陀様より余程手緩い所がある。

その訳は、鼠小僧は人の家へ忍び込み、諸有財産を奪い取ったは悪い奴なれども。取る丈取ればその晩の中に逃げて行ったから、取られた家では困りたるものの、今度は鼠も這入らめように用心して、又も蓄財することも出来たが。
阿弥陀如来も六字に化けて我等が心へ忍びこみ、無始より造りた罪過の、迷いの財産御取りなさるはよけれども。取るだけ取ったら鼠小僧の真似をして、御抜け下さるれば、ソリヤ又迷う工面もある。
今後は寺へ参らぬよう、なるべく六字に近寄らぬようにして。年来仕慣れた貪瞋煩悩で働けば、一日か半日で堕ちるぐらいの造作は直ぐに出来ることなれども。
なさけなや阿弥陀如来は鼠小僧と大違い、一度御宿りなされたら、モウ御抜けなさらぬので。迷おうはするには困ったもので、我等が方には油断なく。今日は一日腹をたて、憎や無念で日を暮し、地獄の業もかなり出来たと思うあとから摂取して捨てざれば、阿弥陀と名付け奉る。


是も弥陀が取りて仕まうぞと、取られて仕まえば仕方はない。今日は一日欲起し、欲しい憎いで難儀して、愚痴までかなりこぼしたから。随分餓鬼や畜生の種が出来たと思うあとから、是も弥陀が受取るぞと、造るあとから取られて仕まい。何程貪瞋煩悩で稼ぎづめにして見ても、迷いの身代たまったものに御座なく候。
とどのつまりは、稼ぐ私の心まで、六字の強力にからめとられて、思いもかけぬ御浄土へ、参らにゃならぬ仕末とは。往生一定御助け治定、何んと計らう道のない、絶対他力の味わいは、とても尽せぬことであります。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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