安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「36 二字安心と六字安心」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

36 二字安心と六字安心

 前席に於いて雑行雑修自力を捨てて、一心に弥陀をたのむというも。たのむ衆生を光明の中に摂めとるというも。発願回向も諸罪消滅も、総て安心の有りだけは。南無阿弥陀仏の六字の相たることをお話し致しました。
 
 
 皆様は御了解が出来ましたか。そこで浄土真宗は、たのんでから助けて貰うのでもなく。助けて貰うてからたのむ宗旨でもない。たのんだというは助かったこと、助かったのがたのまれたので。そのたのむと助けるということが、共に六字名号のおいわれであるから。六字一つに我々が、満足の出来た一念にたのまれたのじゃ。助かったのじゃ。
 
 
 そうして見れば、雑行捨てて弥陀をたのむというも。我等が気張ってする仕事でもなし。またたのむ衆生を、弥陀が光明の中に摂めとるというも。今更浄土より、手出し足出しして貰う用事もない。たのむ機も助ける法も、一名号に成就せられたが、機法一体の六字である。然るにこの機法一体の六字のお手柄を深く会得の出来ない人々は。兎角たのむとお助けを別物にして。弥陀と衆生と出し合いするか、交易でもするような考えを起こし。
 
 
 信心安心といえば、雑行捨てて弥陀をたのむ、疑い晴れて弥陀にまかせる。ひしと縋り参らする思いをなして、後生助け給えと思う。とこれらの心地が我々の意業の上に明らかに、現れねばならぬように心得て。その思いを製造することに稽古して。大事の大事の御助けに、逢うたか逢わぬか。光明の中へ入ったから、入らぬか。その辺のことろは一向分からず、それは如来様の御仕事で。我関せずねん。と済まして御座る御方が沢山あるようじゃ。


 皆様よ、このところは篤と聞き明かして下さいませ。雑行捨てた、弥陀をたのんだ、縋る思いになったとしても。御助けの手の届いたか、届かぬか、解らぬような安心なら。それは二字安心というもので、鎮西宗の伝染病でありますぞ。真宗は六字安心でなければならぬ。一応はたのむ一念の安心を、南無の二字で御沙汰は下さるものの、刻実すれば。「南無阿弥陀仏とたのめみな人」。と仰せられて。六字全領したものでなければ、一流の安心ではありません。
 
 
 然るにたのんではおるものの、御助けの手が、届いたか届かぬか。解らぬような、二字安心で御座る人々は。御袖縋りの御文を読むにも。「ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて」というより。「ひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば」。とあるまでが、安心と心得て。この一段には、研究したり苦心したり、御示談に御相続に。この心この思いというて、出来や不出来に力を入れて御座るけれども。
 
 
 その次に。「この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし 」。とあるところは更に頓着しては御座らぬ。
 
 
 信心獲得の御文でも。「南無とたのむ一念のところ」。だけを信相として。「発願回向のこころあるべし」。とあるは、信相の外と思い。
 五劫思惟の御文では。「「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし」とあるまでは肝要の信心と心得て。「かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり」。とあるところは、我等の手元に用事のないような、つもりでおる。
 
 
 つまり助けたまえとたのむ一念の心地さえ、見事立派に出来上がれば。御助けは弥陀の仕事であるから。こららには御助けに逢うた味や心地は、要らぬような考えを持ち。御改悔文を陳べるにも。「もろもろの雑行雑修の初めより御助け候へとたのみ申して候ふ」。というまでが大事の御安心と心得。「たのむ一念のとき、往生一定御助け治定」。は如来様の仕事。「と存じ」。我が身は助かったか助からんか、解らいでも。「この上の称名は御恩報謝と」。あとを濁して、淋しい心で。「喜び申し候ふ」。という始末である。
 
 
 かくの如き聴聞では、一流安心の体ということ、南無阿弥陀仏の六字のすがたなりという、讚題の御文は、いつしか改正になって来て一流安心の体は、南無の二字の相なりということになり、それと同時に。四字に離れた二字の哀し等。二字の手柄も自然に失せて。たのむ信相を我機の上に企てて、思いや心地の詮議にかかり、楽の他力を難儀に思い。知らず知らずに意業自力に陥って、迷うて果てることになる。これらの間違いが、何から起こると尋ねれば。返す返すも言う如く、たのむと助けるを別物にして、弥陀と衆生の出し合い往生の仕事と思い。六字の手柄を側へぬけ、鎮西病に罹って御座るからである。
 
 
 今浄土真宗は、たのむと助けるが二つ別にあるのでない。たのむ衆生も六字助けるも六字。弥陀の助ける身代有りだけが、名号六字であるゆえに。名号六字そのままが、我等衆生のたのみとなる。この名号を聞き得る信の一念に。いわず語らず、たのまれたのじゃ、助かったのじゃ。その助かった相というも、届いた六字が光明摂取の御手じゃもの。外に尋ねる用事ない。たのまれた形というも、聞こえた六字が力になって御座るもの。この機をなぶる世話もなし。六字一つで大満足の出来たのが、当流の正意であるゆえに。「されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり」。と仰せられた次第であります。