安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「23 三信十念の根源(その2)」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

23 三信十念の根源(その2)

 そもそも阿弥陀如来の、諸仏菩薩に並びの無い、超世の本願というは悪人凡夫を助けて下さるるが、不思議というよりは、寧ろその助けて下さるる方法が至って不思議なので。三誓の偈文から伺うて見ても、阿弥陀如来は、喚び声を以て助けるというのが、本願の不思議の大体である。

 皆様よ、毎日聞きなれておれば、何でもないことのように、思うて御座るかもしれないが。無有出離之縁の我等凡夫を、喚び声で助けるなどということは。実に三世十方に並びのない、霊妙不可思議の方法である。是に依って阿弥陀様は。
「我れ超世の願を建つ」
と宣言なされたので、十方の諸仏が不可称不可説不可思議と讃嘆遊ばるるもここの所である。


 そこでその喚び声をたてて下されたのが、本願に配すれば十七願で、教行信証にすれば、行の巻である。その喚び声を、十方衆生に届けて下されたのが、本願では第十八願で、教行信証でいえば、信の巻である。依って十八願の信心は、十七願の喚び声の外にはなく、十七願の喚び声は十八願の信相の通りで、なければならぬのである。

 この故に南無阿弥陀仏の名号を、十七願の諸仏讃嘆の言葉にかければ。たのむばかりで助けるぞ、称うるばかりで迎えとるぞの喚び声となり、是が行の巻の所明である。その喚び声が、十八願の十方衆生の、心の中へ届いたままが。たのまれて、称えられて、助かったという信相となるので、是が信の巻の全体である。そこで十七願と十八願は、切って切られぬ本願で、行信両巻は、離すに離されぬものなるがゆえに、存覚上人は、「十七十八更に相離れず、行信能所機法一也」と万古不易の御判釈を遊ばさせられ、蓮如上人は、「信心とて六字の外にはあるべからず」と、いとも容易く飲み込みの出来るよう、御示し下された次第である。

 さて斯くの如く、十七願の喚び声と、十八願の信心と、切って切られぬ関係を。皆様から得心して頂いた上で、その喚び声をたててくださるるについて。どうしても只助けるとは呼びかけられんので、必ずたのむものを助ける。称うるものを助けると、御呼びなされねばならぬ、深い訳を御話ししてみましょうが。

 先ず大体に於いて、阿弥陀如来は喚び声を以て助けるという、不思議の目論見はお付けなされたものの。その喚び声を、何という形に、呼んだらよかろうか。ここが充分の御工夫の要ったところで。彼尊の御手元では如何なる喚び声をたてるにも仔細はない。「オーイ」と呼ぶも「ホーイ」と呼ぶも、勝手次第のことなれど。しかし呼んだばかりで、大事の衆生の心へ、嵌まらんときは所詮がない。嵌まっても嵌まらんでも、届いても届かんでも、よばっておればそれでよいということなら、何の工面もいらねども。必ず衆生の心へ、届けねばならぬ喚び声として見ると。十七願の御助けの、喚び声をきめるに付いては、是非とも十八願の、受ける衆生の能機の寸尺から取ってかからねば、ならぬことになって来る。

 大工どん、この鍋の蓋を一つ造って下されと言われたとき。板の形を決めない先に、必ず鍋の寸尺をとってかかるが当たり前。嵌まっても嵌まらんでもよい蓋でない。この鍋に嵌めねばならぬ蓋じゃのに、鍋の寸尺も見ずに、板を切ってしまう大工は、三千世界にありはせぬ。鍋が八寸なら、蓋は七寸五分で、円く造るというような訳で、阿弥陀如来も、十七願の御助けの板を切るには。十八願の機の鍋にあてて見てから、喚び声の板をきめねばならぬ。そこで若し只で助けるぞと、呼んで下されたら。我等衆生は、確かに頂かれるものであろうか。喚び声の外に、何か有形の品物でもあって。これで只助けるとか、是を只与えるというならば。飲み込みも、受け取りも出来ようが。喚び声の外に、何の一つもないのじゃに。夫れを只で助けるぞとだけ、呼んで下されて見たところで。丸で空々漠々の話になってしまい。貰った相もわからねば、受けた形も解らぬゆえ。それでは安心が出来るものでもなし、それではとても頂くことは出来ません。

 そこで阿弥陀如来は、十七願の御助けの喚び声が、十八願の衆生の心に届いたとき。如何なる形に顕るるかと、寸尺取るに苦心惨憺遊ばしたので。若しも我等が御助けを頂いたそのときに、殊勝にでもなるのもならば。「殊勝になれよ助けるぞ」と喚び声の形をきめさせられ。若しも明るうでもなるものならば、「明るうなれよ助けるぞ」と呼びかけたまうことなれど。明るうもならず、殊勝にもならぬ我々に。殊勝になれよ救うのと。呼んで下されて見たところで、とても我等が根機に嵌まらん。そこで阿弥陀如来は、十七願の御助けの板を、十八願の機の鍋にあてて御覧なされたところが。明るうもならず、殊勝にもならねども。御助けが届けば、たのみ力にするだけは、確かに請け合いの器である。

 ヨシ解った、そんなら衆生の根機に相応するよう。「たのめ助ける」と喚び声を決めておこう。そしてたのまれたばっかりで、称えずにおる衆生なら、乃至十念は要らねども。一念後念と延びゆけば、必ず称える器である。ヨシこれも解った、衆生の根機に嵌めるには、三信の次には十念だ。「称うるものを救うぞ」と呼びかけよう。是より外に衆生の手元に何ぞあるよな器なら、弥陀は何でも呼びかけようが。たのんで称うるその外に、何の別状ないゆえに。これで本願の決定はつけたと、御建てなされたのが、三信十念の根源である。

 斯くの如く味わって見れば見るほど、三信十念は助ける弥陀の為ではない。助けて頂く衆生のためであるということは、いかにも明瞭である。若しも助ける衆生の御都合ならば、十七願の上に、たのむ者と、称うるものと、御誓いなさるる筈である。然るに十七願の上では、ただ諸仏讃嘆の言葉にかかる、喚び声だけを御誓いなされ。たのむと称うるということは、衆生の能信能行の、第十八願の上に、御誓い下されてあるからは。三信も十念も、助けるに付いての条件ではない、全く助けて貰うた我々の、他力廻向の信相であるということは、いかにも明瞭のことである。

 そこで我等がたのんで、我等が称うる衆生じゃもの。鍋が円なら蓋も円、鍋が八寸なら蓋もそれ相応と。いかにも我等が根機相応に、たのめるよう称えられるよう。御成就下された品物が、南無阿弥陀仏の名号である。

 この故に十七願の名号には、たのんで助かるいわれもあり。称えて助かるいわれもある、と言うことに成ってきた。そこで十八願の願事その侭が、十七願の六字の名義、即ち名号のいわれであるということを。詳しく御知らせ下されたが、立教開宗の御本書、教行信証にして。それを最も手短に、お聞かせ下されたのが、八十通の御文の御化導にして。南無阿弥陀仏の六字の中に、衆生のたのむ機もあるぞ、弥陀の助ける法もある。これ即ち機法一体の南無阿弥陀仏であるゆえに。

 たのむというても、衆生から出す仕事でない、届いた六字でたのみが余り。助けるというても、今更弥陀から手出しは要らん。聞こえた六字のそのままが、我等一切衆生の、平等に助かりつる相なり。六字一つの働きで、たのみになって助かってしもうた上の念仏は、何の用事で称うるか。自身往生の用ではない、偏に報謝の大仕事。捨てておかれぬこの身なら、称うるばかりが報謝でない。その日その日の日暮らしも、残らず報謝のうちなれば、殖産興業油断なく。稼業渡世は命がけ、親子兄弟睦まじく。念仏諸共励めよが、二諦相依の教えである。