安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「42 他力の御手 」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

42 他力の御手

前席に於て御話しを申した、他力の手を貰って、その手で縋るというような。珍無類のおかしい議論は、何から迷い出した話しであるやというに。これは御助けの法をたのむ機を別物にして、阿弥陀仏の四字と、南無の二字を離してしまい。二字で四字を引き付けるように考えて。たのめば御助けたのまねば御助けにあわれぬ。しかもそのたのむのが、我が心でたのむのでは自力になるゆえに。他力よりたのみ心を貰って、その他力廻向のたのみ心で、御助けをたのむいうように心得誤って。弥陀の御助けがこの機に届いたそのままの形が、南無帰命と顕わるるということを知らざるが故に、斯かる議論が起こり来るので。これが真宗の真宗たる、安心の根底から動いて来る大問題であるから。迂闊に聞いて下されては、無量永劫の仕損じになりますぞ。


この前にも詳しく御話し申した如く。信心を切符のように思って、親のわざ仕立てのお迎え舟に。乗り込む手元に、切符を貰ってから、乗らねばならぬというような話しも。又届いた法の外に、受け心がなければならぬというような考えも。共にこの他力の手を貰って縋るという意味と同一の間違いである。一つ違えば何処までも、違ってくるは勿論のことなれども。餘りといえば口惜しい程の間違いである。


皆様よくよく考えて見て下さい、他力の手を貰ってその手で縋るというは。抑も何たることでありますか。蓮如上人の仰せの如く、他力とは他の力ということなり。他の力というは、他より届いた力ということ。この珠数に私の手が懸かってある、この私の手が珠数からいう時は他力である。そのお子さんが母親に抱かれて御座る。その抱いて下された親の身体が、お子さんからいえば他力と申すのじゃ。私の手で握った上は、珠数から特別に手を出して、縋る用事はあるまい。私に握られたままが珠数の縋り任せた形である。親が抱いて下された外に、子供から縋りつく世話はあるまい。親の離さぬ他力のままが子供の精神的に縋り任せた形にして。子供の方では時に眠って居ようと、泣いていようと、縋り任せた形は動かんので。泣いていたまま眠っていたままで、親に抱かれておる。ソレそれだけの相の上に、たしかに計らいなく親に縋り任せておる形は、明瞭に顕れてあるから。抱いた親の相の外に、子の抱かれた形はない。これが所謂、四字即二字、二字即四字で、機法一体の味わいである。その機法一体の御六字が、全く御助け法、即ち親様である。


その助けの法たる六字の親様が、赤子に劣るこの機の内へ届いて下された信の一念がたのまれたのじゃ助かったのじゃ。そこで法も六字なり、機も六字なり、御勧め下さる所行所信の法も名号不思議の信心を、ひとしくひとえに勧めしむ。受けるこちらの能信能行の安心の体も、南無阿弥陀仏の六字の相なれば。一応いえば南無はたのむ阿弥陀仏は御助けと二字と四字とに分けららるるものの。再往剋実して見れば、たのむも六字、お助けも六字である。これを弥陀からいえば、たのむものを助けるという、衆生からいえば、御助けをたのむという。法より機に向かったときと、機から法に向かった場合で言葉に左右はあるものの、仕事に二つあるのでない。


たのむものを助けると仰せられても。お前がたのめばおれが助けるという、相談づくの仰せではない。たのめば助けるという喚び声そのままが、御助けの六字である。その御助けの六字がいよいよ御助けであったかと、法のままがこの機に届いた一念に。此方から出す自力たのみの手が引けて、先方より届いて下された、御助けの他力そのままが。たのみ力と顕れて下さるる、これを他力廻向のたのみ心というのじゃから。他力の手を貰って、その手で縋るというようなあほらしい訳ではない。他より届いて下された、御助け一つがたのまれた形、縋った形である。

これを三帖目初通の御文より伺って見ると、

ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまいらせて、一念も疑ふ心なくは(二字)、かならずたすけたまふべし(四字)。

と仰せられて、たのめば必ず御助け下さるるが、しかしそのたのむ心というも、自力から出すのでもなく。他力の手を貰ってたのむような次第ではない。四字の御助けが届いたままが、南無とたのむ信心じゃということを顕して、次の御言葉に。

されば一念帰命の信心の定まるというも(二字)、この摂取の光明にあひたてまつる(四字)時剋をさして、信心の定まるとは申すなり。

と二字即ち四字、四字即ち二字の味ひを御知らせ下された。そこでいよいよ最後にいたって。

しかれば南無阿弥陀仏といへる行体は

と六字を押さえて。

すなはちわれらが浄土に往生すべきことわりを、この六字にあらはしたまへる御すがたなりと(所信)、いまこそよくはしられて、いよいよありがたくたふとくおぼえはんべれ(能信)

と所信も六字、能信も六字なることを。明瞭に御聞かせ下されてある。


さて皆様よ、所信の能信の二字の四字のと、斯かる面倒な御話しは。御解りになる御方もあるであろうし、又御解りならぬ御方も多かろうが。大体八十通の御文有りだけは、皆様に面倒かけようとて御書きなされたのではない。世話のいらない御六字で、面倒なしに助かるから、六字一つで満足せよと御親切極まる御勧めである。


よって魚津の御講師が。『八十通の御文は六字の御延書と見よ』。と仰せられたことが、私の耳に残っておる。この御一言は実に忘れてはならぬ格言であります。
御文計りではない、一切の聖教というも、ただこの南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりと思ふべきもななりとあれば。代々の善知識のご苦労は、只この六字で助かるぞよの御勧めより外はない。


六字で助かるものならば、目鼻形はなけれども、これが親とも仏とも、名体不離の親様が。心に内薫密益と届いて御座るその外に、何の不足がありますか。たのんだ形がほしければ、南無阿弥陀仏が届いて御座る。助かった相見たいなら、六字の親が来て御座る。借りた証拠も証文一本貸した証拠も証文一本。借りた証拠と貸した証拠と証文二本いるのでない。僅か一本の証文が、借りた証拠にもなり、貸した証拠にもなる。あなた方の心の内へ届いた六字の証文が。弥陀からいえば、夫れが助けた証拠じゃぞ。衆生からいえばたのんでしまった証拠である。


助けた証拠も南無阿弥陀仏、たのんだ証拠も南無阿弥陀仏。落とさん証拠も南無阿弥陀仏。六字一つの御助けで、満足出来たありなりが、縋るこの手に世話いらず、ひしと縋る思いである。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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