安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「27 呼声と船」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

27 呼声と船

 皆様よ、この有情を呼ぼうてのせ給うというところが、実に三世十方に並びのない、超世不共の弥陀法に局(かぎ)る別徳を、顕わして下さるるのであります。多くの人は、爰(ここ)に不思議のあることを知らずして、ただ世間普通の助け船から、呼掛けたもののように心得ておるものゆえに。弥陀の呼声の値打が更に解らんのみならず、呼声丈は全く要(いら)ぬものになりて来る。此世の助け船ならば、呼ぶも聞かせるもいりません。たとい呼んで聞かせて喜ばせても、船が行かねば乗せることも、助けることも出来ぬのじゃ、然るに阿弥陀如来に限りては、此呼声が何より大切なので、呼んで聞かせる外に助ける道はないのである。

 
 抑も阿弥陀如来の弘誓の船というものは、木で造ったものか、鉄で造ったものか、皆様はご存知でありますか。船がおわかりないことでは、乗せて頂くことも出来ませんから、よく御聞き下されませ。
 
 
 弘誓の船は木で造ったものでなく、鉄で造ったものでもない。何で造ったものかといえば。五劫の願と永劫の行で出来上りたが弘誓の船。速力は屈伸臂頃で、噸数は願力無窮、形ちと申さば、長くもなく、短くもなく、色も相もあらばこそ、唯南無阿弥陀仏の呼声一つ。
 
 
 此六字の呼声が、弘誓の船として見ると、実に仏法不思議ということは、弥陀の弘誓に名けたり。何が不思議と申しても、弘誓の船ほど不思議のものはありません。船が六字で、六字が呼声なら、呼声の外に、乗せて下さる船はないのじゃから。呼ぼうて下さる呼声が、乗せ下さる船を差付て下さるる事になるそこでいよいよ、今の御和讃が明瞭に解ります。弥陀観音大勢至の御助けの人も、大願の船という御助けの法も。我等生死の凡夫の手元へ届けて下さるる其時は。悉く名号六字の呼声にして、呼んで聞かせて与えて乗せて。助けて救うて参らせて下さるる御手柄を顕わして。
 『有情を呼ぼうて乗せ給う』。
 と仰せられたのじゃ。此味わいを先年、某同行に書送りた拙者の腰折れがある。
『呼声のままが摂取の助け船、聞く一念が乗込んだとき』



 六字が船で、船が不思議や、呼声なら。耳に六字の聞えたとき、耳まで船が着いたとき。心に仰せが真受になりた一念に、乗込む世話もあらばこそ。大願の船に乗せられて、正定不退の身となるのじゃで。機受の手前は造作なく、次の和讃にあらわして。
『弥陀大悲の誓願を、深く信ぜんひとはみな』。
と聞信の一念に乗込む用事は済んで仕まい、後は御恩の内住居。
『ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏を称うべし』。
と二首一連に御示し下された次第である。さて其乗込む一念、乗せられた信相は、次席に於てくわしく御話し申しましょう。

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以名摂物録(松澤祐然述)「28 弘誓の船と港」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

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以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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