安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「25 乗せられたが他力」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

25 乗せられたが他力

 成程よくわかりました。切符を持っていても、乗らねば行かれぬ、弘誓の船には切符はいらぬ、乗りさえすれば行かるる道理。その乗り込んだ時が、南無とたのんだ形ちと聞けば、乗り込む一念が大事に違いない。然れば其弘誓の船にはどうして、乗込めばよいのですか。

 皆様は、いよいよ切符持たずに、乗込む気になりて下されましたか、それは難有い。しかしどうして乗ればよいのじゃ、と御聞きなさるが、抑自力の耳の立てようである。当流は乗るのに違いはなけれども、其実は乗せられるのです。此辺が大事の聞きどころ。
 
 
 自分の方から、どうして乗ったらよかろう、と乗込む工面をする人は。手足がきくか、腰が立つか、兎も角も自己に力のある人でなければ叶わぬ訳。盲目で躄(いざり)で腰抜で、おまけに大病煩うておるものとして見ると。どうして乗ったらよかろうの、思いも断えた話しになる。
 
 
 今日の皆様や我々は、落ることや沈む事ならいざしらず。仏になるの極楽へ参るのという問題になっては。智慧の眼目(まなこ)はつぶれはて、戒行の足腰はぬけて仕まい、八万四千の煩悩の大病人でありながら、どうして乗るとは烏滸がましい。
 『生死の苦海ほとりなし、久しく沈める我等をば、弥陀弘誓の船のみぞ、乗せてかならず渡しける』。
 
 
 乗込む世話をやめにして乗せて戴く他力船。乗るのが自力、乗せらるるが他力。そこで乗せ『られ』る、乗せ『られ』た、という『ラレ』の二字が、いかにも他力至極を顕わす言葉にして。祖師聖人も、弥陀の誓願不思議に助け『られ』参らせて、往生をとぐるなりと仰せられて。
 
 
 此助け『られ』参らせてとある、『ラレ』の二字を能く吟味して御覧なさい、雛鶏(にわとり)が籠の中へいれ『られ』た。雛鶏は何も知らずに餌を拾うてたべていた。そこへ主人が大きな籠を以て来て。ソーッと鳥にかぶせたので、もう鳥は逃ることは出来なくなりた。さあ是が鳥の智慧や分別で、籠にはいったのではない、一から十まで主人の計らいたった一つで、籠にはいったのじゃゆえに。他力を顕わすそのときは、鳥が籠にいれ『られ』たというのである。
 
 
 子供が蚊帳にいれ『られ』たというも同じこと。子供の方では永の一日遊び戯むれ疲れ果て、夕飯の御膳のねきに睡りて仕もうた。それを見付けた母親は、オヤ坊が睡りたよと、自分の喰(たべ)る箸放て、立って行ったは寝間の中。床をのべたり蚊帳をつり、用意万端調えて、睡れる我が児をドッコイと、両手かかえて抱き上げ。アア坊が重くなりたよ重や重やと、小言いうのか、喜ぶのか、親の親切に運ばれて、蚊帳の中へ寝せられた。子供が蚊帳へはいったに違いはないが、其蚊帳へはいるという問題に付いて、子供の工面や願いは少しもいらん。残らず親の手際計りで、はいったのじゃ故に子供が蚊帳へはいったというよりは。他力を詮わす場合には、入れ『られ』たという方が明瞭である。
 
 
 此様の御話しは幾何並べても同じこと。今日在座の我々も、弘誓の船に乗込むには。自分の力があるでなし、自分の世話がいるでなし。他力づくめに計らわれ、乗せ『られ』るのじゃと知られたら。どうして乗りたらよかろうと、自力の相談やめにして。どうして乗せて下さるか、と尊方(あなた)の手元へ耳を傾けるのが、他力の聴聞と申すものである。

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以名摂物録(松澤祐然述)「26 呼ぼうてのせ給う」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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