※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。
前回の続きです。
22 切符持たずに飛乗り
第二に信心が切符で、御助けが汽車ならば。切符と汽車は全く体が違うておるから、確かに機法二体になる。機法が二体であるならば、切符を受取った時と、汽車に乗込んだ時と、どうしても別とせねばならぬ。
それでは一念帰命の道がたたぬ。しかしこれには一念同時と理屈をつけて見ても、頼んだ時と御助けの時とは一念同時という内に、前後次第が付いて来ねばならぬ。説筆に次第のあるは仕方もないが、事実一念の内に前後が分らるるものならば、決して一念とは申されぬ。信心や安心は理屈できまるものではない、実際からよく味おうて御覧なさい。
汽車に乗るには切符がいるとは、それは一応の理屈をいっているまでのことで。実際よりいって見ると、切符はなくとも汽車に乗りさえすればゆかれます。時としては間違って乗ったのでも、乗りさえすれば汽車は必ず連れてゆきます。私などは年中のうちには、切符持たずに乗込むことが間々あります。
皆様も弘誓の船に乗込むに、切符がいるなど考えていずに、まあ乗込んでおしまいなされては如何です。聖徳太子は何んと仰せられました。
『急げ人弥陀の御船のかよう世に、切符を出して早う乗込め』
そんな仰せではありません。
『乗後れなば誰か渡さん』。
行っても行かんでもよい所なら、一汽車ぐらい乗後れても、切符を取ってゆるゆると二番汽車で御出なさるもよかろうが。この汽車で行かねば間に合わぬという場合に於て、切符の沙汰をして御座るは愚痴の限りというものです。この度乗後れたら、極楽参りの二番汽車はないのですから、切符の沙汰はあとにして大至急乗込んで仕もうて頂きたいのであります。
かく申したら皆様のうちには、成程切符はなくとも乗りさえすれば行かるるに相違はないが。其様のことをしては、必ず罰金をとられましょうと仰しゃる御方もあろう。
これはごもっとものことですが、今日では車掌さんにことわって乗込めば、罰金は取られませんが。先年までは切符がなくては、どうしても増金を二十銭取られました。行かんでもすむ所ならいざしらず、この度参らねば無量永劫参れぬ浄土じゃもの。罰金ぐらいを恐れて御座るは気の毒じゃ、早く早く御乗りなされ。
私は車掌の役を勤めて、切符なしに御乗りなされたことを、証明してあげますよ。そして罰金は先方へ着してから取らるるのでありますから。切符なしに乗込んでも、極楽へ行ってしまえば。阿弥陀仏の親様は、待っていたぞよ能う来てくれた。衆生のための罰金なら、千万両でも吝まずに。出してやるぞと仰しゃるから。切符持たずのそのままで、早く飛乗りなさるが何よりであります。
続きはこちらです。
→以名摂物録(松澤祐然述)「23 切符は狂人の沙汰」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)
元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。
- 作者: 松沢祐然
- 出版社/メーカー: 法蔵館
- 発売日: 1918/01/01
- メディア: ?
- この商品を含むブログ (50件) を見る