安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「4 頼まずに助かった所以」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

4 頼まずに助かった所以

かく申したら皆様は。さても松澤は詭弁を吐く坊主である。極楽参りの問題を、魚津あたりへ持ってゆき、後生の話を此の世の話にいい曲げて。これが頼まんで助かる証拠じゃのと、人を愚弄するにも程がある。そんな証拠が、御文やご和讃の中に何処にある。聖教の所判になき、くせ法門とは汝のことである、ご立腹なさる御方も有るでしょう。

しかし皆様、心静かにしばらくしばらく。仰せ御尤もには候えども、御文やご和讃から、助けてもらうのではありません。助けてくださるるは、阿弥陀如来でありますぞ、余りうろたえてくださるな。阿弥陀如来と申す御方は、凡夫よな粗末の御方でありますか。不実で固めた凡夫でさえ、だれが落ちておるやらわからん他人を助けるに。頼ませてから助けるような、不徳のことはしないのに。真実ずくめの親様が、一子のごとく憐念すと。可愛い衆生を助けるにたのむ一念のないものは、落ちても知らんというような、不実の有るべきはずは有るまい。もしそのような親様であったなら、畜生にも劣ることになります。皆様はこの辺のところは、何と味わって下されますか。イヤ何とあろうと御文通りだ、たのめ助けるの仰せだもの。たのむ一念のないものは、とても助かる訳はない、と飽くまで御力みなされますか。夫れでは一休禅師の笑い草。
『阿弥陀には まことの御慈悲はなかりけり。
 たのむ衆生を撰助けする。』
 ということになりますよ。
 

 全体言葉から、心が定まるのではない。心から言葉が出たのじゃから。文に依らずして義に依る、言葉に迷わずして心を取らねばならぬので。道理、文証、扱い所詮と、学者方は申されますから。道理を先として文証を後へ回すが、当たり前である。依って御文やご和讃の御言葉をあとにして、暫く道理から考えて御覧なさい。
 

 角川の遭難者が、頼みもせぬのに助かったは。如何なるわけで助かったのじゃ。巡査が来たので助かったか、消防夫が来たので助かったか。斧で腰板を破ったので助かったか。
 それらは御助けの縁にはなっておるけれど、未だ助かったのではない。正しく御助けの決着は、消防夫が列車の中へ飛び込んで、お助けの手を懸けたときに助かったのじゃ。
 そこで消防夫や巡査が駆けつけてくれた故。たのまんでも助かるに、違いないと思っておるが法体づのり。たとえ巡査が来てくれても、たのまんでは助かるまいと、思っているのが意業づのり。何れにしても御助けの手が届いてないから、助かったのではないことだけは請け合いである。


 ここをもう少し込み入って、お話をしてみると。落ちたお客の中にも、重症のものは半死半生で、夢中になっていたけれど。軽傷のものは、叫び声張り上げて、助けてくれ助けてくれ……と頼んでいた。これは自力だのみと言うもので、何のようにも立たぬので、更にたのむ思いもなく、夢中になっていた者と、少しも変わりはないのである。


 そこでいよいよ消防夫に飛び込まれ、御助けの手のかかったとき今迄叫んで助けてと、たのんだ自力の手は引けて。真から底から落ちつかれ、安心安堵の出来たのが他力廻向のたのみである。ここでお客が万一にも、張りつめた心が一時にゆるみ、忽ち昏睡状態の夢中になってしまっても、たのみの体は変わらぬのじゃ。客から出したたのみなら、夢中になったその時に、変わらぬわけはなけれども。客から出したたのみでない、助けてやるぞと向こうから。懸けた先手の御助けが、たのみの体であるゆえに。夢中に抱かれておるままが、たのんだ形、縋った形、他力にまかせた形である。ここまで行けば始めから半死半生で夢中になっていたものも。御助けの手が届いた上は、たのまれた形は同様で。縋りまかせて相まで、更に変わりはないのである。


 今日御互いの我々も、後生一つの助かるは。弥陀があるから助かるか、六字が出来たで助かるか。呼び声聞いたで助かるか。そこらあたりで治定(きまり)はつかぬ、つかぬ治定のつくときは、助けるお手の届いたとき。助ける弥陀がある上は、たのむ用事はいらないと。法体まかせにしてみても、後生の定りはつかぬのじゃ。助ける弥陀があればとて、たのまんですむものかやと。意業だのみをしてみても、矢張り後生は定(きま)らんのじゃ。定(きま)らぬ衆生の後生をばきめてやりたい親様は。五劫永劫の駆けつけて、種々に善巧方便の。斧振り上げて定散と、迷う自力の腰板を、打って打って打ち破り。宿善開発の端的に、我能く汝を護るぞと。苦しい胸のどん底へ、飛び込まれたる御六字が、摂取の御手であったかと。知れて届いた一念に、たのむたのまん世話要らず、助かったのじゃたのまれたのじゃ。助けてもらったこの客は、散乱粗動の夢中でも。助ける六字が動かぬゆえ、たのむ相も動かぬのじゃ。たのむ衆生の手元では、妄念妄執わすれてもたのめる六字が変わらぬゆえ助かる道も変わらぬのじゃ。変わらぬ動かぬ御六字の働き一つがあらわれて。安堵決定とたのまれた。これが他力廻向の信心というのである。