安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

「私は、この世の中、人の世というものの寂しさをすごく感じております。お互いに愛情をもって思いやり尊重しいたわり合うことができないことを寂しく思っています」(STEPさんのコメントより)→阿弥陀仏の本願力は太陽の光のようなものです。

STEP 2014/10/08 22:24
(略)
私は、この世の中、人の世というものの寂しさをすごく感じております。
お互いに愛情をもって思いやり尊重しいたわり合うことができないことを寂しく思っています。

人同士がお互いに心を暖かく完璧に通いあわすことができないのことにとてつもなく寂しさを感じております。

阿弥陀仏はそのような涙を流しっぱなしの私を仏にしてくださるのですね。
とてもありがたく嬉しいことです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20141006/1412583884#c1412774690

阿弥陀仏のお慈悲というのは、例えて言えば太陽の光のようなものです。それは、太陽に照らされたからといって、人の世の寂しさという現実が消えうせるものではないからです。


しかし、太陽の光がなくては私は生きていくことも出来ません。日々口にするお米一つにしても成長することはできませんし、酸素が光合成されるということもありません。つまり、今の私を支えているのは、太陽の光であるということは出来ます。


私が、何を考えていようと、それとは関係なく太陽の光という支えがないと私というものは一日たりとも生きていくことは出来ません。


その意味で、私の寂しさを焦点に阿弥陀仏が本願を建てられたわけではありません。それでも、太陽の光に有り難いと思うように、私を支えて下さっている南無阿弥陀仏に、大変有り難いと思います。その阿弥陀仏の本願力にあう人は、その人生が空しくすぎることはありません。仮に、暖かく心を通いあわせる人に出会うことがなくても、私を支え浄土に往生させる働きが本願力です。

そのことを親鸞聖人は、浄土和讃に言われています。

(13)
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし
高僧和讃 天親讃 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/a8QvWl

「本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき」とは、本願力にあった人は、空しく人生を送ることはないと言う意味です。しかし、それは、多くの心を通い会わせる人との出会いに恵まれるという意味ではありません。

そういう人に出会わせるという友人紹介の本願ではありません。先ほどの太陽の光の例えで言えば、友人がいなくても人間は生きていくことはできます。しかし、太陽の光なしでは人間は生きていくことはできません。太陽のない人生は、ただ、ただ死んでいくだけです。そうではなく、太陽の光に照らされて生きていくのが本当の人生です。その人生とは、すなわち生死をはなれて浄土往生を遂げさせていただくことです。

それを、私に教えて下さっているのが、今STEPさんの口から出てくださる南無阿弥陀仏です。この南無阿弥陀仏は、本願力であり私を浄土に往生させるお働きです。その南無阿弥陀仏に救われてから、また人生を眺めて見てください。