安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ただ今救われると聞いても、心が南無阿弥陀仏を受け取れるように整えていなければならないのではないかと思います。」(頂いた質問)

ただ今救われると聞いても、心が南無阿弥陀仏を受け取れるように整えていなければならないのではないかと思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となって私に向かって働きかけておられます。それを「ただ今助けると喚んでおられる」「南無阿弥陀仏と私に回向されている」といった言い方で表現することがよくあります。


しかし、それを聞いて私に向けて南無阿弥陀仏が回向されていると聞いてもあまりそれがピンとこない方は南無阿弥陀仏が遠く感じておられます。そのため、上記のような疑問を起こされるのだと思います。


例えていうと、野球で外野守備の練習をしているとき、自分めがけてコーチが外野フライを打ってくれた打球のように感じられているのだと思います。自分の守備位置めがけて高いフライがおちてくるとき、ミットを構えている人は「きちんとグラブにボールが入る筈だが、取れないかも知れない」と考えます。なぜなら、ボールと自分の距離が遠いからです。あまり遠いと目測をしていても誤ることはあります。しかし、その距離がとても近い場合はそのような心配はありません。例えば、二・三歩さきからボールを投げられた時はほとんど落とすことはありません。それでも中には、落とす人がいるかもしれませんが、そんな人でも自分のグローブを掴まれて直接ボールを渡されたらどうでしょうか?私がどう手を動かそうとしても、絶対にボールを落とすことはありません。

そのように、南無阿弥陀仏は遠くからの喚び声ではなく、ただ今私の口の上で念仏となって喚ばれています。そして、私がそれを聞き入れるように準備をする必要はなく、私をとらえて南無阿弥陀仏を聞かせて下さっています。ただ今助けるの仰せの通りに私はただ今助かります。そのように聞いて疑い無いのを信心と言います。

私があれこれ南無阿弥陀仏を遠くに感じるときは、実は南無阿弥陀仏が遠いのではなく、私が距離を置いているだけです。いわば、南無阿弥陀仏から逃げているのです。そんな私を、見捨てず追いかけて助けて下さるのが阿弥陀仏です。


親鸞聖人の浄土和讃にこのように言われています。

(82)
十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃)

http://goo.gl/MAVg8B

この「摂取してすてざれば」の「摂取」について、親鸞聖人は以下のように解説を書かれています。

【左訓】「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(異本)

http://goo.gl/KDFKNd

ものの逃ぐるを追はへ取る」とは、逃げるものは追いかけて救うということです。

阿弥陀仏が遠いのではなく、自分が逃げているだけです。逃げても追いかけて、ただ今そこにおられます。こんなとこにいるはずもないのに、と思っていてもここで私をただ今救うの仰せが、南無阿弥陀仏です。ただ今聞いて、ただ今救われて、ただ今南無阿弥陀仏と念仏称えさせて頂きましょう。