安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

仏願の生起本末は、私にはお伽噺にしか聞こえません。(?さんのコメントより)

?さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

2014/04/17 14:28
>仏願の生起本末はご自分にとってどういう意味を持つものと理解しているのでしょうか。
 仏願の生起本末を疑いなく聞けるようになれば、自分の後生の一大事は解決できたのだと思います。
 でも仏願の生起本末は、私にはお伽噺にしか聞こえません。

>信を得た人が仏願の生起本末を喜んでいるポイントは、どこにあると思っているのでしょうか。
 信を得た人は、仏願の生起本末が自分の為のご苦労だったことがわかったのでしょう。
 だから喜べるのだと思います。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140415/1397552950#c1397712489

たかぼーさんのコメントに対するコメントですが、私も思ったところを書きます。

仏願の生起本末がお伽話としか思えない気持ちはよく判ります。しかし、真宗の歴史を見ても、それをお伽話と思わずに聞法された方が多いのも事実です。もちろん、中世の宗教観と現代の宗教観の違いはあります。仏様と聞いても、中世の人は不思議に思わなかったのが、現代では「それはお伽話では?」と思う人も多いです。


しかし、あらためて考えると中世の人の宗教観が現代の私たちより劣っていたということではありません。違うところは、科学的視点です。いわゆる科学的に証明されていないものは、その存在を認めないという態度です。もちろん、その態度は大変大事なものです。しかし「法蔵菩薩が誓願を建てて、五劫思惟し、兆載永劫の修行をして阿弥陀仏となられたことを科学的に証明せよ」と言われても、お経がしゃべるわけもなく、お仏壇のご本尊がモノをいうわけでもありません。


そのような科学的視点にかけているのは、自分自身の問題という視点です。例えば「全ての人は死んでいく」というのは科学的視点です。それに対して「私が死んでいく」というのが宗教的視点です。そのように「私」という視点を外してしまえば、仏願の生起本末はお伽話としかなりません。現在私を助ける働きが南無阿弥陀仏です。


それをなんとか自分が納得出来るように証明してみせよという考えは、「不請の友」である阿弥陀仏の友情を試す考え方です。
南無阿弥陀仏と一度でも称えた事があるならば、それが阿弥陀仏の本願が成就した証拠です。ただ今助けるの本願を聞いてただ今救われて下さい。

たかぼーさんのコメント

エントリーを書く間に?さんのコメントに対して、たかぼーさんのコメントかありましたので紹介します。

たかぼー 2014/04/17 17:18
 大経所説の仏願の生起本末を「歴史的事実である」かのように理解しようとすると、おとぎ話にしか聞こえません。しかし、仏願の生起本末は「如来の願い」を物語風に説かれたものです。如来の願いとは、生死してゆく私を生死のない世界に救い取ることにあります。如来の願いは「救わせてくれ」という願いです。法を聞くとは、如来の「救わせてくれ」と願う願心をそのまま聞き容れる(聞き受ける)ことなのです。如来の願いをそのまま聞き受けているから、信の人は仏の願いが私にかけられていることを素直に悦ぶことができるのです。
 仏の願いはすでに円満に欠け目なく完成・成就し、その証しとして南無阿弥陀仏が私に届けられていると聴聞して、如来の願心を聞き受けとめるているのが信です。そのように如来の願心を受けとめるとき、おとぎ話しであったはずの仏願の生起本末の「末」とは、私に称えさせるための南無阿弥陀仏が既に私に届けられ、いま私が南無阿弥陀仏と称えていることを指して「末」と言われているものであるということを現実的な感覚をもって受けとめ、理解することができます。如来と私との唯一の接点は、南無阿弥陀仏が我が身の上に生じている口称の念仏となってあらわれている「末」にあるのです。妙好人は信を得たことによりそのことを感覚的に理解しているのです。信を勝解という理由はここにあります。その故に、念仏を尊いものと喜んだり、その喜びを仏が口称の念仏となって現れているなどと表現し、念仏を喜ぶことができるのです。