安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とは「阿弥陀仏の本願が私の為に建てられたことに疑いが無い」ということですよね?(ひなさんのコメントよりう)

ひな 2013/07/18 08:39
山も山さん、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」ということについてお尋ねしたいと思います。

随分と前のことになりますが、私は「妙好人善太郎さん」の言葉を読む機会に恵まれました。
その中で特に印象に残った所を書き出します。

 善太郎が、地獄で泣いていがるを
 ひと目この阿弥陀如来は、ご覧あらせられたのが、不憫のはじまり
 この善太郎が、地獄で泣いていがるをこの阿弥陀如来は、この善太郎を・・・・・・

 あなたのお慈悲のお目から、ご覧あらせられば
 この三界に迷うておるを、ご覧あらせられれば
 あまりも不憫さ、かわいさのあまりに
 あなたがあらゆる浄土をみなかけまわって、ご覧あらせられたれども
 この善太郎やおとよ(妻)は助けることかないませんと
 一願つとめてみいとゆうても、手にあわんというからはとてもとても・・・・・・

この言葉を読んでしばらくしたある日、私はふと気が付いたのです。
(そうか・・・私が地獄で泣いていたのを阿弥陀様は一目ご覧になられたんだ・・・それがすべての始まりだったんだ・・・)と・・・。
そうしたら急にかたじけなくなってきて、私はその場にうずくまって泣きました・・・。

その後も(私がこんな奴だから、阿弥陀様に御苦労をおかけしたんだ・・・)と思い涙することがありました。

そして今でも(こんないいかげんな奴をようこそ・・・)と思うと「かたじけない」思いにウワッと襲われます。
「泣くな! 冷静になれ!!」と言われても、とても無理な状態になるのです。
自分の方には何一つ確かなものはないのに、私に涙させ、私にお念仏を称えさせる「確かな何か」があるのです・・・。

山も山さん、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とは「阿弥陀仏の本願が私の為に建てられたことに疑いが無い」ということですよね?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130715/1373868804#c1374104371

「仏願の生起本末」という言葉を出した場合は、「私のために建てられたこと」とイコールの表現にはなりません。コメントに出された妙好人善太郎さんの言葉も、「なぜ阿弥陀仏は私のために本願を建てられるようになったのか」という、本願の「生起」をいわれたものです。「この三界を迷うておるを、ご覧あらせられれば あまりの不憫さ、かわいさのあまりに」の大慈悲心が、阿弥陀仏が本願を起こされた理由です。


仏願の生起本末といったときは、なぜ阿弥陀如来が本願を起こされたか(生起)と、その結果どのようにして私を救おうとされているか(本末)となります。ですから、「阿弥陀仏が私のための本願を建てられた」その結果どうなったか、という後半部分の説明も加えないと「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とはなりません。


教行信証の中から引用しますと。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、(教行信証信巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P231)

http://goo.gl/Z6U1m

この部分が、「仏願の生起本末」でいえば「生起」にあたります。私の方には、清浄な心を起こせといわれても、そういうものはなく、真実の心もありません。そんな私を阿弥陀仏が憐れみ悲しまれて本願を建てられました。


そうして、阿弥陀仏は法蔵菩薩であったときに願を建てられ、大変な長期間の行をなさったと言われているのが次の部分です。ここから以降が「本末」にあたります。

不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。(同上)

法蔵菩薩は、清浄な心も、真実の心のない私にかわって、清浄であり真実の心で兆載永劫の行をなさいました。


その結果、南無阿弥陀仏が成就したといわれているのが次の部分です。

如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。(同上)

そして、その南無阿弥陀仏を私にさし向けて(回施)下さっています。


仏願の生起本末を聞きて疑心あることは、言葉を変えると「南無阿弥陀仏のいわれ」を聞いて疑心あることなしという意味です。もちろん、南無阿弥陀仏は「私のため」といえるのですが、「ではなぜ南無阿弥陀仏はただ今私のところに届いているのか、なぜ私がただ今称えることができるのか」ということも含めていうのが「南無阿弥陀仏のいわれ」です。


「本願を聞いて」ということでしたら、ひなさんが書かれたようなことでよいと思います。