安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「長年聞法しておりますがなかなか信心決定できません。しかし、ここで聞法をやめても所詮人生は苦しみしかないではないかと思い、そこに留まっています……」(頂いた質問)

長年聞法しておりますがなかなか信心決定できません。しかし、ここで聞法をやめても所詮人生は苦しみしかないではないかと思い、そこに留まっています……(頂いた質問)

私も同じことを以前考えていたのでよく判ります。
確かに貴方のように真面目に聞法される方は、日本全体から言えば多数派ではありません。大変有り難い方だと思います。しかし、大事なことは「聞法」を現実逃避の手段にしてはならないということです。

いろいろなことがご縁となって、人生は苦しい所であると感じられたならばそう考えるのも無理はありません。とはいえ、それが転じて「聞法している私は、聞法していない人より遥かにましな人間である」とか「聞法していれば、阿弥陀仏はこんな私を優先的に、臨終でも助けて下さるに違いない」と考えるのは間違いです。


なぜなら、阿弥陀仏の本願は救う相手を差別されません。また、こんなに苦しいのだから何とかして欲しいという私の要求に応えてはじめて救って下されるのでもありません。それは仏様は不請の友だからです。

もろもろの庶類のために不請の友となる。(大無量寿経)

http://goo.gl/YF3u7E

不請の友とは「衆生が請願しなくとも、衆生のために大いなる慈しみをもってその親友となる人」のことです。つまり「友達になってくれ」とこちらがお願いしなくても、親友になって下さいます。こちらが「助けてくれ」と言わなくても、助けて下さるということです。


阿弥陀仏を親に例えられたものも多いですが、私個人としてはかけがえのない友達です。これはあくまでも、阿弥陀仏の立場ではなく私の立場としての味わいです。凡夫であり、救われる立場からすれば、また個人的な感覚からすれば、親よりもある面では友達の方が安心できるものです。「不請の友となる」とよびかけ、救ってくださる阿弥陀仏は貴方の本当のトモダチです。人生が苦しみに満ちていても、決して貴方を裏切らない本当のトモダチがいることを知ってください。ある意味で、親よりも心配してくれるのが不請の友です。南無阿弥陀仏は「お前を見捨てないぞ」の不請の友の声です。親子という血縁より濃いつながりもあります。もし、貴方か親という言葉に親しみがもてないなら、阿弥陀仏を不請の友と聞いてください。

ただ今救われますから、ただ今救われて下さい。