安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏いただくことは死ぬ決心ができることでしょうか?報恩と、生きたい気持ちはどのように関係しますか?」(頂いた質問)

南無阿弥陀仏いただくことは死ぬ決心ができることでしょうか?
報恩と、生きたい気持ちはどのように関係しますか?(頂いた質問)

二つ問いを頂いたので、それぞれについて書きます。

Q1.南無阿弥陀仏いただくことは死ぬ決心ができることでしょうか?

最初に「死ぬ決心」と言っても、全ての人に自殺願望が潜在的にあるわけではないことを断っておきます。また、自殺を考えていた人は、南無阿弥陀仏によって救われたならば躊躇無く自殺をするということでもありません。


私自身の事で言えば、現在自殺願望はありません。とはいえ、煩悩がある以上はいろいろ煩わしく悩まされることもいろいろあります。しかし、だからといって死んで早く浄土に生まれようと思う気持ちはありません。なぜなら、「今自分の心が苦しい、だから浄土に早く生まれたい」というのは、「自分の気持ちが最優先・中心」の考え方であって「南無阿弥陀仏中心」では無いからです。死にたい、死にたくないはあくまでも私の都合です。その私の都合を満足させる為に本願が建てられたのではありません。


阿弥陀仏は第十八願に「本願を信じ念仏申しなさい、その者は必ず浄土に生まれさせる」と誓われています。本願を信じた上では、「念仏申せ」ですから言葉を変えれば「生きろ」ということです。生きていなければ念仏することは出来ないからです。
法然聖人のお言葉に

生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし

というものがあります。


生きていればそれだけ念仏のお育てに預かるのであり、死ねば浄土に参らせて頂くのだ、その意味では生きることも死ぬことも煩いはないと言われています。言葉を変えれは、生きることにも死ぬことにも意味があるのだということです。それならば、この生から逃れる為に死を選ぶ理由は何もありません。


生きることで種々の苦しみがあるのは凡夫の持ち前です。それでも阿弥陀仏は生きてゆけと言われるのですから、阿弥陀仏の仰せのままに生きて行くだけです。しかし、この命が法を伝えるのに何か役立つのであれば、特段惜しむ気持ちもありません。

Q2.報恩と、生きたい気持ちはどのように関係しますか?

報恩=死ぬ ではありません。少なくとも、現在の日本ではそのような場面はあまり無いと思います。その意味では「生きたい気持ち=人から尊敬されたい気持ち」が現実に即していると思います。

法が伝わり、曲がらなければそれでいいと思います。親鸞聖人のように人倫の哢言を恥じずとは言い切れなくても、批判に苦しんでも法が伝わる方が嬉しいと思います。