安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「念仏するものを救う本願」と信じて念仏するものを救う本願、とは随分回りくどいように思うのですが、阿弥陀様はなぜそのような本願とされたのでしょうか。(Peing質問箱より)

anjinmondou.hatenablog.jp
これに加えて質問箱に頂きました。

質問箱より

「念仏するものを救う本願」と信じて念仏するものを救う本願、とは随分回りくどいように思うのですが、阿弥陀様はなぜそ | Peing -質問箱-

質問箱には、以下のように書きました。

法然聖人は、「念仏するものを救う本願」という言い方をされました。その上で、質問にいろいろと解答を書いているうちに、言葉を重ねて長くて分かりにくい言い方になってしまいました。
念仏という言葉には、「行」「信」はともにあります。その意味で「念仏するものを救う本願」と聞いて有り難く思われるのであれば、それでいいと思います。

これに加えて書きます。

本願の説明として「念仏するものを救う本願」と言った時に、「念仏」の定義が人によって異なることによっていろいろと批判は起きました。
法然聖人に批判をしてきたいわゆる聖道仏教の人たちからすれば、法然聖人が勧められる「(称名)念仏」は、大した功徳もない、劣った行だと考えていました。そもそも「念仏」といえば「観念仏」のことだとしていました。
そのような批判があったことは、「一枚起請文」に書かれています。

もろこし(中国)・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。 (一枚起請文 - WikiArc浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1429)


それに対して、法然聖人は、選択本願念仏集でこのように書かれています。

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。(顕浄土真実行文類 - WikiArc引文・浄土真宗聖典註釈版P186)

念仏とは「称名念仏」のことであり、「名を称すれば、必ず生ずることを得」といわれました。

ただ、念仏していても信心が伴わないならば浄土往生できないと言われています。

この三心を具すれば、かならず生ずることを得、もし一心少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。(選択本願念仏集 (七祖) - WikiArc)・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1247)

この信心について親鸞聖人は、自分で起こすものではないですし、念仏も自分の力で考え出して称えるものではないから、どちらも阿弥陀仏から賜るものだと言われました。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。 (信巻 P.229)


質問されたように、

単に「念仏するものを救う本願」としていただくのがありがたいように思ってしまうのです

私もそう思います。

教えからいえば、「念仏するものを救う本願だと有り難く頂く」ことでよいと思います。

法然聖人の一枚起請文では、信心と念仏は分けて書かれていません。

ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。 ただし三心・四修*1と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。(一枚起請文 - WikiArc浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1429)

ただ南無阿弥陀仏と口で申して、疑い無く往生するぞと本願を信じて申す以外にはなにもありません。また、信心と称え方といっても南無阿弥陀仏にて往生すると思うところに収まっているのだと言われています。

念仏と信心が別のものでないという前提でいえば、上記の一枚起請文も特別説明は要らないと思います。


ただ、「念仏を称えることによって信心が獲られる」とか、「信心を獲る事で念仏が出てくる」というように、信心と念仏を別物としたり、それぞれを因果関係で結ぶような考えをする人もいました。
そこで、誤解のないように、信心と念仏の関係を書かれた親鸞聖人の書かれた文章を現代語で書くと、ご指摘のような「念仏するものを救う本願」と信じて念仏するものを救う本願というような書き方になりました。

念仏は、私が阿弥陀仏に助けて頂くための救助信号でもなければ、「これから助けにいくぞ」という阿弥陀仏の「通知」でもありません。

ただ南無阿弥陀仏と申すものを救う本願という言い方でわかる方は、そのように聞かれればいいと思いますが、「信心」はどうなのだとか、口で称えるだけでいいのかという方に対しては、先に書いたような長い言い回しになってしまいます。

追記 四修

ししゅ 四修
浄土教において行を修める四つのしかた。
①恭敬修(阿弥陀仏とその聖衆を恭敬礼拝すること)
②無余修(専ら阿弥陀仏の名を称え他の行いをまじえないこと)
③無間修(行を間断させず、また、煩悩をまじえないこと)
④長時修(恭敬修・無余修・無間修を命終わるまで修めつづけること)
(浄土真宗辞典)

*1:追記参照