安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心と言っても南無阿弥陀仏のほかにはありません(MIさんのコメント)

MIさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

昔、そのそう 前までは疑いを自覚出来ました。
(略)
これは信心なのかどうか、
とずっと善知識様のお文章を走り回るばかりで・・。
ただ、お念仏が心地よくはあるのです。

ガッと胸を裂いて心をお見せする事も出来ないので、もどかしいやらなんやら・・(MIさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100924/1285276112#c1285320371

信心については、親鸞聖人は

「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文・註釈版聖典P678

といわれています。阿弥陀仏の本願を聞いて疑う心の無いのが信心です。
何か特別な心がわき起こったことが信心ではありません。

浄土往生させていただくのは、南無阿弥陀仏一つであって、私の方に特別な力もさとりも必要有りません。阿弥陀仏の本願を疑う、自力の執心にとらわれて、自分の心に目を向けてばかりでは、目の向かうところが違います。

わがちからもさとりもいらぬ他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転の故郷にかへらんこと、かへすがへすもかなしかるべきことなり。(安心決定鈔・註釈版聖典P1399

自分の胸の中に信心らしい証拠を探すのではなく、阿弥陀仏の本願に目を向けて下さい。
救われるといっても、信心と言っても南無阿弥陀仏の他にはありません。