安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心獲得すると、入正定聚の益で正定聚不退転の位に入るのではないのですか?それならば、私自身に大変な変化があるのではないでしょうか?」(頂いた質問)

信心獲得すると、入正定聚の益で正定聚不退転の位に入るのではないのですか?それならば、私自身に大変な変化があるのではないでしょうか?(頂いた質問)

確かに、信心獲得すると現生十種の利益を獲ます。その十種の利益の内、10番目に「入正定聚の益」があります。正定聚とは「必ずさとりを開いて仏になることが定まっているともがらのこと」です。


そんな身になると聞けば、凡夫であることには変わらないと言っても、何か変わるのでは無いかと思われるのも当然と思います。しかし、それは間違いです。

なぜなら、正定聚になるということは法の徳から言うことであって、自らの実感として言うことでは無いからです。
そのことについて言われた御一代記聞書のお言葉を紹介します。

ここでは、先ほどの「凡夫であることには変わらないと言っても、何か変わるのでは無いか」に相当するのが、「一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まる」です。

(35)
一 順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、御文にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。御文と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。 命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや。聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしと も、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なり と、くれぐれ仰せられ候ふなり。

ここで順誓は、信心獲得した一念のところに「罪みな消滅して正定聚不退の位に定まる」と御文章に書かれていることに疑問を起こして蓮如上人に質問をしました。なぜなら、「罪はいのちのあるあひだ、罪もあるべし」と蓮如上人が仰ったからです。この御一代記聞書から推測すると、御文章に書かれていることを順誓は「信心獲得すると罪が綺麗さっぱりと無くなったと実感できるよう」に理解していたようです。


それに対して蓮如上人は「そういうことではないですよ」と順誓に説明されています。それが「一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり」です。信心獲得して、浄土往生が定まったならば罪は往生の障害とはならないのだからないのと同じであるという意味です。


例えて言えば、どれだけ重い石でもそれを浮かべられる船に乗せられたならば、「海上に浮かんで向こう岸に到着する」上では、「石の重さ」は「問題にならなくなる」という意味で「なくなったようなものだ」と言われています。それは、あくまで「船の力からいえば」石の重さはなくなったように問題にならないと言っているだけで、石の重さは何も変わっていません。


それを、石が海に浮かんで向こう岸にいけるようになったのだからといって「重い石が軽石となって海に浮かぶようになり、さらに自分の力で向こう岸にたどり着ける動力を身につけた」と勘違いするのは間違いです。


石が海に浮かぶのも、向こう岸にたどり着けるのもあくまで「船の力の話」であって「重い石が質的に変化した」のではありません。


ここで船とその力に例えられたのは信心であり南無阿弥陀仏のお働きです。石とその重さに例えられたのは、私自身であり、その煩悩罪悪です。

まとめ

まとめて言いますと、信心獲得すれば、確かに正定聚不退の位に入りますが、それは「私自身の実感を伴った変化」でいうものではなく、南無阿弥陀仏のお徳の上で言うことです。自分自身の大きな変化を期待して信心獲得を求めるのは間違いです。
ただ今救うの仰せにただ今救われて下さい。

参考

今回の御一代記聞書の現代文。

(現代文)
 順誓が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられます。
けれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。
御文章のお示しとは違うように聞こえますが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」と申しあげました。

すると上人は、「信心がおこったそのとき、罪がすべてみな消えるというのは、信心の力によって、往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげとならないのであり、だから、罪はないのと同じだという意味である。
しかし、この世に命のある限り、罪は尽きない。
順誓は、すでにさとりを開いて罪というものはないのか。
そんなことはないだろう。
こういうわけだから、お聖教には、<信心がおこったそのとき、罪が消える>とあるのである」とお答えになりました。

そして、「罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを何度でも問題にするがよい。
罪が消えてお救いくださるのであろうとも、罪が消えないままでお救いくださのであろうとも、それは弥陀のおはからいであって、わたしたちが思いはからうべきことではない。
ただ信心をいただくことこそが大切なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。