安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

会長「若不生者の生まれるは、信楽に生まれさせる」と相変わらず言っている件(5月29日テレビ座談会より)

5月29日テレビ座談会の参加者より情報を頂きました。有り難うございました。
テレビ座談会の内容は、「歎異抄をひらく」ついての質問でした。

質問は、以下の通り。

質問:歎異抄をひらくP191・3行目
「弥陀の本願まことが常に聖人の原点であったのだ」とは、どういうことでしょうか?

それに対する会長の答えは、以下のようなものでした。

会長「聖人の原点は、弥陀の本願まことだったということろから出るのです。これで今日の質問、親鸞聖人の原点は、弥陀の本願まことだったと、本願を信受したに迷いの心が死んで、即得往生、そのとき往生された、そこが原点、そして後念即生と生まれ変わられた、無碍の一道、絶対の幸福になられた。だからこそ、あれだけの活躍を、90年間されたんですね。原点はそこにある。本願をそのまま、体を通して知らされた。本願や行者、行者や本願と覚如上人は言われている。」

質問者「弥陀の本願まことということを、知らされた聖人だからこそあのような活躍されたことを改めて知らされました。」

前回の青年大会も含めて、「善の勧め」を言わなくなったのはどうしたことかと思いました。
このまま18願のことだけ言って欲しいところですが、肝心の18願の解説では、相変わらず「若不生者の生まれるは、信楽に生まれさせる」と言っていました。(根拠は愚禿鈔)

親鸞聖人は、「若不生者」について、尊号真像銘文で解説されています。

この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。「「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典(註釈版)P644)

親鸞会で公式採用されている、法蔵館の真宗聖典では、上記の部分は少し異なります。

この真実信心を得む時、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まると見えたり。「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふ言なり。「不取正覚」は佛にならじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文・法蔵館の真宗聖典P587)

法蔵館の真宗聖典では、「このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。」が省略されています。
なぜ浄土真宗聖典(註釈版)と、法蔵館の真宗聖典では違うのかと言えば、法蔵館の真宗聖典に書いてあります。

越前法雲寺には建長7年選述の略本を伝え、伊勢専修寺には正嘉2年選述の広本を伝えている。何れも真蹟である。今はその略本を収めた。(法蔵館の真宗聖典P586最初)

どちらも親鸞聖人の書かれたものには違い有りません。どちらを読んでも、「若不生者」を、信楽に生まれさせると親鸞聖人は解説されていません。

詳しく説明しなくとも読んだとおりです。
「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。」というのが、若不生者の生まれるの意味です。

浄土真宗聖典(註釈版)にも「この本願のやうは『唯信抄』によくよくみえたり。」と言われています。本願に何を願われているかは、親鸞聖人も唯信鈔によくよくみえたりといわれています。そこで、唯信鈔に、本願(第十八願)はどのように書かれているのかをみますと

法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて衆生を利益せんとおぼして、(浄土真宗聖典(註釈版)P1339

これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、(同上)

とあります。
阿弥陀仏の本願は「一切善悪の凡夫」をひとしく浄土に生まれさせるためのものです。「絶対の幸福」にするためのものではありません。生死を離れ、浄土に生まれさせ、仏のさとりを開かせるために、正覚をかけて誓われているのです。