安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏はつかむものではありません(頂いた質問)

メールで頂いた質問です。

今私がつかもう獲ようとしているその信心,念仏称えて頂こうとしている名号とは,自分の頭で作り上げている南無阿弥陀仏,自分が勝手に思っている想像している信心ではないでしょうか。そんなありもしない架空の南無阿弥陀仏を何とか信じよう,つかもう,獲ようと励んでいることになるのでしょうか。(頂いた質問)

南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏の働きそのもののことです。自分で作り上げるものではありませんが、どのようなものかということはよく知る必要があります。

南無阿弥陀仏について、蓮如上人は、御文章に善導大師の六字釈をひかれて教えておられます。

この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。(御文章5帖目13通

南無とは帰命であり、発願廻向という意味である。阿弥陀仏とはその働きであるといわれています。このことから、南無阿弥陀仏によって必ず往生することができるのだといわれています。

さらに、この善導大師の六字釈について、蓮如上人は詳しく教えて下さっています。

しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。(御文章5帖目13通

この善導大師の六字釈をどのように心得たらよいかといえば、例えば我らのような悪業煩悩の身であっても、一念阿弥陀仏の仰せに従えば、必ず本願に信順するものを助けてくだされるのである。帰命というのは、阿弥陀仏の「ただ今救う」の仰せに対して「どうぞお助け下さい」とそのまま受ける心である。だから、一念に阿弥陀仏をたのむ者に往生浄土させる大功徳をあたえることを、発願廻向とはいうのだ。

帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻

帰命というのは、阿弥陀仏の仰せに従うことです。勅命とは、断るとか、しばらく考えるという猶予を与えない強い仰せということです。阿弥陀仏が、「直ちに来たれ」と言われれば、有無を言わさずそれに従わざるを得ないと言うことです。

阿弥陀仏をたのむものに無上の功徳をあたえるこころですから発願廻向といいます。

御文章に続けてこういわれています。

この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。(御文章5帖目13通

阿弥陀仏が私たちに与えるために修められた大功徳を我々に与えて下さるから、法の徳の上からいえば罪を消滅させていただいたと同じく、正定聚不退転の位に入るのです。

このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。(御文章5帖目13通

と結論としてかかれています。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏をたのむものを一念で必ず救うという阿弥陀仏のお働きそのものを、私たちに分かる形であらわされたものです。

「車」とか「テレビ」というようなただの記号ではありません。実際に私を助けようという働きそのものを「南無阿弥陀仏」といわれます。必ず救うと私たちに名乗りをあげられたものが、南無阿弥陀仏なのです。

ですから、南無阿弥陀仏はつかむもではありません。働きそのものはつかめません。月の光をこの手でつかむことができないとの同じ事です。

ただ今救うと願を建てられた、阿弥陀仏の仰せに従うのが、阿弥陀仏に救われるということです。何かをつかむのではありません。阿弥陀仏にただ今救われるのが信心です。