安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

そのままとは?(2回目)「阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞きますが、「そのまま」とはどういう事でしょうか?」(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞きますが、「そのまま」とはどういう事でしょうか?(頂いた質問)

前回のエントリーに続いて、「そのまま」について書きます。
阿弥陀仏の救いはそのままの救いであると聞かれることもあると思います。しかし、この「そのまま」というのは分かるようでよく分からない言葉なので、どのような意味かについて前回に続いて書きます。


そのままというのは「与えられたそのまま」という意味です。では、真宗の信心はなぜ「与えられたそのまま」と言えるのでしょうか?与えられたそのままですからこちらの造作は全く必要ないからです。

そのため、親鸞聖人は信心について「易」と愚禿鈔に言われています。

難易に二とは、
一には難は疑情なり。
二には易は信心なり。(愚禿鈔上_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P504)

http://goo.gl/C4EtCg

難易対
難とは三業修善不真実の心なり、
易とは如来願力回向の心なり(愚禿鈔下_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P539)

http://goo.gl/0fdZ9l

疑情、三業修善不信実の心を「難」といわれ、信心、如来願力回向の心を「易」といわれています。

そのことを、蓮如上人は御文章に「易」の意味を以下のように書かれています。

あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。(御文章2帖目7通_五戒・易往_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1119)

http://goo.gl/EAEOXD

ここでは「安心」の「安」と「易往」の「易」を同じ意味として書かれています。なぜ安心が「やすきこころ」なのかといえば、こちら側では「さらになにの造作もなく」であり「やうもいらぬ」ものであるからです。こちらの造作は一切必要とされていいないということです。

しかし、そのように聞きますと最初のお尋ねにあった

何もしなくてよいと聞くとどうしても無力というか、退嬰的な印象を受けます。

と思う人はあります。


これについて、最後に書きます。「易」とは、「安易」の意味にとらえる言葉ではありません。「安易」という言葉には、「即席的」とか「ただ乗り」とか「あまりよくないもの」というイメージがあります。


しかし、易いとか「なにの造作もいらない」というのは、「手出し無用」ということでありさらに言えば「貴方の造作は全く必要ない」という否定の意味で、自力の否定なのです。自力の否定されるところに、南無阿弥陀仏の「願力回向の心」は働きます。否定のままに、ただ今救うのお働きが働いているのが「易い」ということです。決して無力や退嬰的なものではありません。