安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の救いは無条件の救いであり、そのままの救いと聞きますが、どうしても遠くに感じてしまいます。なぜでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは無条件の救いであり、そのままの救いと聞きますが、どうしても遠くに感じてしまいます。なぜでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の救い・他力の信心について一般にいわれる信心との違いについて書きます。


一般にいう信心とは、仏や神といった対象を私が信じるという信心です。信じる対象を固定化して、はるか向こうに置いてそれに向かって信じるという信じ方をいいます。
浄土真宗で言う自力の信心は、名号を向こうに置いてそれに向かって進んでいこうとするものです。その前提で、「信心」「救い」を考えると、「無条件」とか「そのまま」と聞いても今一つすっきりしない気持ちになると思います。そこから、「無条件なら何もしなくてもよいのか?」とか「そのままというのは何もしないことなのか?」とか、「何もしないでよいのならもう救われているのか?とてもそうは思えない」などなどの疑問となって現れてきます。


これらの疑問は、すべて先に挙げたように信じる対象と信じる私、救うものと救われるものと二者の間に距離を置いている前提から起きてきます。距離がある前提ですから、その距離をどうにか縮めなければならないとあれこれ考えます。「無条件」と聞いても安心できない、「何もしなくてよいのか?」と思うのは、阿弥陀仏の救いと私の間に距離があるのが大前提だからです。


しかし、そのような距離というものは本来存在しません。なぜなら、阿弥陀仏の救いは南無阿弥陀仏となってすでに成就しているからです。仏の側からいえばすでに成就している法を、私の側から見ると距離があるように勝手にみているだけなのです。そこから、すでに成就している法をはるか彼方に置いて求めていくから、その方向にはどこまでいっても救いはないのだと親鸞聖人は教行信証に書かれています。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。(教行信証化土巻_真門決釈_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P412)

http://goo.gl/lNLgnB

「微塵劫」かかっても「仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし」なのは、「助正間雑し、定散心雑する」からであるといわれています。このような自力の心をもっては、どれだけ経っても救われることはないといわれるのは、すでに成就している法を遠くに置いているからです。遠くからの救いを求めているからです。


ずっと向こうに置いている前提の救いにただ今にあうから、本願力にあうことを「遇う」と書きます。

『浄土論』にいはく、「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とのたまへり。
この文のこころは、「仏の本願力を観ずるに、まうあうてむなしくすぐるひとなし、よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」とのたまへり。「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。
「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。(一念多念証文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P691)

http://goo.gl/ojI9UL

「遇う」は、本願力を信ずるなりと言われています。本願力を信ずることを「遇う」といわれるのですが、この「遇う」は「思いがけずにであう(漢字源より」の意味です。あの救いにあおうとして、実際にそのような救いにあうことを「遇う」とはいいません。あのような「信心」に「なろう」として「なる」なら「遇う」という言葉は適当ではありません。


なぜなら、「救いとはこういうもののはず」「信心とはこういうものであるはず」の思いは、それに「なる」ことが目的になってしまいます。目的になるとそれが絶対化されはるか向こうに設置されることになります。それに向かって進もうというのが自力の心といわれるものです。そのため、自力の心のある間は、救いは向こう側にあり、遠くにあるものです。そのように離れているから、「信じる」「称える」「○○をする」といった、自分の方の作業が必要になってきます。仮に、そのように「信じた」ことによって向こう側の救いが私と一つになったとしても、それは自分の予想しているものですから「遇う」とはなりません。


他力の信心、阿弥陀仏の18願の救いはそのような「このようになる」と彼方にある救いが自分のものになるようなものではありません。大前提として遠くある救いが、そうではなく全く反対にすでに成就しており、与えられているとことを聞き入れるのですから「遇う」という言葉通りです。救いの法がすでにただ今私に働いており、ここにあることは全く想像もしていません。そのように夢にも思わないものにあうから「遇う」という字をつかうのです。その前提での「無条件」とか「そのまま」の救いといわれます。


救いは遠くにあるはずという前提で言えば「無条件」も「そのまま」のあまりぴったり来る表現ではありませんが、すでに救いの法はただ今私に与えられているという立場で言えばその通りというよりほかはありません。