安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記:機法一体について(機法二種深信の機法と機法一体の機法は違います)

前回のエントリーの追記です。
この「機法一体」という言葉は、蓮如上人の御文章によく出てくる言葉です。機法一体について、蓮如上人が御文章に使われている意味で解説をします。

御文章の中から、機法一体と書かれた部分を一つ紹介します。

しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。(御文章3帖目7通・三業)

http://goo.gl/hcG3B

南無阿弥陀仏を、南無の二字と阿弥陀仏の四字に分けて解説されています。そこで、「南無」は、阿弥陀仏を信じる信心でありこれを機といわれています。「阿弥陀仏」は阿弥陀仏が私を助ける働きのことをいわれこれを法といわれています。南無阿弥陀仏の六字に、機(信心)と法(働き)が一つになっていることを、機法一体といわれています。


しかし、こう聞くと南無阿弥陀仏は、南無と阿弥陀仏とそれぞれ別のものが一つになって南無阿弥陀仏になったのかと思う人もあると思いますが、それは違います。他力の信心と、阿弥陀仏のお働きは本来一体といわれて本来一つのものです。それが解説のしかたで別の言葉で表されているにすぎません。

南無阿弥陀仏の六字すべてが信心

ですから、南無阿弥陀仏の六字がすべて信心であると書かれているところも御文章にあります。

さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。(御文章3帖目2通_如説修行・成仏)

http://goo.gl/iukfG

ここでは、他力の信心は南無阿弥陀仏であると書かれています。他力の信心といっても、何か特別なものがあるのではなく南無阿弥陀仏がその本体ですからこのようにいわれています。
別の言い方にすると、阿弥陀仏は私を助けるお働きですから、私がそのまままかせたという信心となります。南無阿弥陀仏が信心だと言う場合は、「阿弥陀仏にまかせた(南無した)」という意味です。ですから、南無阿弥陀仏の六字全部が信心(機)ということになります。信心といっても、この私の心の上めがけて働くように最初から成就された南無阿弥陀仏だということです。


南無阿弥陀仏の六字すべてがお働き

もう一つは、南無阿弥陀仏の六字をお働きそのものとして書かれているところもあります。

これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(御文章1帖目15通_宗名・当流世間)

http://goo.gl/VVnDm

ここでは南無阿弥陀仏の六字を「われらをたすけたまへるすがた」といわれて、私を助けるお働きそのものとして書かれています。
別の言い方をしますと、「弥陀をたのむ(南無)ものを助けるお働き(阿弥陀仏)」が南無阿弥陀仏ということで、南無阿弥陀仏の六字は阿弥陀仏のお働き(法)そのものを表されているということになります。阿弥陀仏のお働きは、弥陀をたのむものめがけて働いて下さるということです。


このように、南無阿弥陀仏を「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字にわけて解説をされているといっても二つ別のものがあるのではありません。南無阿弥陀仏の六字に他力の信心と阿弥陀仏のお働きがそれぞれあることを、一度に説明するときに便宜的にわけられたものです。


ですから、最初に紹介した御文章に“しかれば「南無」の二字は”と書かれてあっても、本当のところは「南無(阿弥陀仏)」はという意味です。阿弥陀仏を南無の中に収めて解説をされているということです。ですから、“つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは”も、「(南無)阿弥陀仏」という四つの字のいわれという意味で、南無を阿弥陀仏に収めて解説をされたということです。


他力の信心(機)と阿弥陀仏のお働き(法)は、元々一つであるということをいわれたものが機法一体というお言葉です。また、他力の信心は私の力がまったく入るすき間がないといわれたものです。


蓮如上人の御文章に書かれている機法一体は、今回書いた内容で統一されています。
しかし、機法二種深信の「機法」と機法一体の「機法」は違います。
二種深信でいう、「機」は私のすがたをいわれたものです。自力では生死を離れることができない私のすがたを機といわれています。法は私を救う阿弥陀仏の本願力を言われたものです。
同じ漢字が使われていても、使われる場所によって意味が異なる場合があります。それを逆手におって、話を分からなくする人もいるので聞く方は注意が必要です。