安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその2:異義「水火の二河に焼かれる白道は自力ではないか?」について

前回のエントリーの続きです。

異義

2.二河白道の喩えの解説部分で「〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。」と言われている。すでに「愛心つねに起りてよく善心を染汚する」と言われている。煩悩に染まりまた、焼かれている白道は、要門(19願、廃悪修善、定散二善の勧め)でなければいったいなんだというのだ?煩悩しかない道を進めと言われるのは、結局のところ、煩悩を抑えて善をせよということではないのか?だから親鸞聖人は、浄土文類聚鈔の信楽釈の下にこの文を引いて、虚仮不実の行であると言われている。どうして、この白道が、18願だといえるのだろうか?

回答

「愛心つねに起りてよく善心を染汚する」とは、貪欲の水の河と瞋恚の火の河に、そのまま本願を聞こうとする際に障害になることを示されているだけです。それに対して、白道といわれる他力の信心は、貪欲の水の河、瞋恚の火の河の波にも汚されたり燃やされることがない大変固いものであることを示されています。
親鸞聖人が、浄土文類聚鈔の信楽釈に

これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。(浄土文類聚鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P492)

http://goo.gl/MQOO4

と、この文を出されているのは、言葉をここに借りて、心は至誠心釈としていわれているのです。そこをよく読んで下さい。

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要するに、異義者の主張は、水の波に潤され火炎に焼かれている白道がどうして金剛心・他力信心と言えるのだろうか?というものです。
それに対して「愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く」は、浄土文類聚鈔では、その前後がどういう文章で書かれているのかを知らなければなりません。

二つには信楽、すなはちこれ、真実心をもつて信楽の体とす。しかるに具縛の群萌、穢濁の凡愚、清浄の信心なし、真実の信心なし。このゆゑに真実の功徳値ひがたく、清浄の信楽獲得しがたし。これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して、頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもつてかの浄土に回向する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの如来、菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心中に作したまひしによるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。如来、清浄真実の信楽をもつて、諸有の衆生に回向したまへり。(浄土文類聚鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P492)

私のような凡夫は元から清浄な信心、真実の信心をもちあわせていないので、信楽を獲得することができません。そこで、善導大師のお言葉を伺うと、「愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く」と言われ、どれだけ真剣に善に励んでも浄土往生は絶対にできないと言われています。そこで、阿弥陀如来は、法蔵菩薩であったときの願行はすべて真実・清浄なものでしたが、それを私に差し向けてくださるのです。

ご文の意味は大体上記のようなものです。
「愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く」から、阿弥陀如来は真実信心を廻向してくださるのだと言われているのであって、白道が水の波に潤され火炎に焼かれているからこれは自力の信心だというのは間違いです。