安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「声に出さず心の中で念仏しても救われますか?息声や押し殺したような声で唱えてもいいのでしょうか?」(1chさんのコメントより)

1ch 2013/10/18 10:11
声に出さず心の中で念仏しても救われますか?
息声や押し殺したような声で唱えてもいいのでしょうか?

実際に声に出して唱える「南無阿弥陀仏」が耳に聞こえなければいけないのでしょうか?

近所に聞こえるのではとか、
外で念仏していたら怪訝に思われるのでは、自慢(いい人ぶるような)と思われるのでは、
外では構えてしまって周囲を気まずくするような雰囲気だから、お寺に行ったら集まってきた人の妨げになるのではないかとか、
そういった理由から念仏をためらいます。

念仏したいけれど、いろいろ怖がって念仏できないという時、
私の側にはどんな問題があるでしょうか?(例えば、わがまま、頑固など)
このような状況から脱するにはどうするとよいでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131015/1381819365#c1382058700

1chさんのコメントに書かれていることについて、最初に結論を書きます。

大無量寿経に「聞其名号 信心歓喜」と説かれているように、名号を聞いたことを信心といいます。そのため、声の大小は関係ありません。大事なのは、親鸞聖人が「仏願の生起本末」、また蓮如上人が「南無阿弥陀仏のいわれ」といわれたように、そのいわれを聞き受けたということです。


しかし、1chさんのコメントを拝見しますと、どうも「南無阿弥陀仏と口で称えて、それを耳で聞けば、いわれを知らずともよい」と理解しておられるのではないかと思ってしまいます。そのため、念仏の「声量(音量)」を問題にされているように思います。そのあたりは、1chさんはどのように聞かれているでしょうか?


そこで、以下は南無阿弥陀仏の功徳について書きます。阿弥陀仏の本願が成就した、願行具足の南無阿弥陀仏には無上の功徳があります。それを、蓮如上人は御文章に「無上甚深の功徳利益」といわれています。また法然聖人は、選択本願念仏集に以下のように言われています。

また「無上の功徳」とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。(選択本願念仏集_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1224)

http://goo.gl/AkK2W3

「無上の功徳」の「無上」とは「有上」に対する言葉であるといわれています。したがって、南無阿弥陀仏の功徳は「これ以上はありません」という限界がありません。言葉をかえると功徳が無限です。つまり、南無阿弥陀仏そのもののお働きに限度がないということは、私が称える声の大小で功徳が増えたり減ったりするようなものではないということです。


この功徳が限りないというのも、南無阿弥陀仏のいわれの一つです。しかし、全体からいえば、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が私を浄土往生させるために私に与えてくださる功徳利益であり、それ一つを受け取ることで浄土往生するように成就されたものです。それを「本願招喚の勅命」と親鸞聖人はいわれています。その意味は「阿弥陀仏のただ今救う、浄土に来れと呼びかけられる強い仰せ」です。それがこの南無阿弥陀仏ですから、私の声の大小は関係ありません。


逆に、どれだけ大きな声で称えていようとも、「称えていればいいのだろう」と自分の行としてしか念仏を称えないならば、六字のいわれを聞いたことにはなりません。


1chさんが、コメントに書かれているように、念仏をしようとするけれどもいろいろと怖がるという気持ちの原因は、一番は「念仏を自分の行と思っていること」です。自分の行(あるいは持ち物)と思えばこそ、人目を気にしたりする気持ちが強くなっているのだと思います。念仏するのは私の口であっても、行そのものは私の行ではありません。


最後に、「このような状況から脱するにはどうするとよいでしょうか?」とありますが、ただ今南無阿弥陀仏のいわれを疑い無く聞いて救われてください。それが一番です。