安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の招喚の勅命を聞くとは、どのような声が聞こえるのでしょうか?」(頂いた質問)

阿弥陀仏の招喚の勅命を聞くとは、どのような声が聞こえるのでしょうか?(頂いた質問)

どこか遠くから「そのまま助くるぞ!」と不思議な声が聞こえるのではありません。しかし、私も以前そのように考えていました。それでも、どれだけ真剣に聴聞しても、念仏をしてもそれらしき「不思議な声」が聞こえる様子もなく、救われることはそんなにすぐあるものではないのだと自分で一人合点をしていました。


私が直接この耳で「音声」として聞くことができるのは、「南無阿弥陀仏」であり、その南無阿弥陀仏を伝えて下さった「お釈迦さまの教え」です。本願招喚の勅命である南無阿弥陀仏と、それを勧められたお釈迦さまの教えに従ったことを信心といいます。それを、尊号真像銘文には以下のように教えられています。

「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。(尊号真像銘文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P655)

「釈迦・弥陀の二尊の勅命」とは、「釈尊が衆生に浄土へ往生せよと勧めつかわすこと」(発遣)であり「阿弥陀仏が衆生に浄土へ来れと招きよぶこと」*1(招喚)です。この二尊の仰せにしたがったことを、帰命といいます。このように、二尊の仰せを聞き入れたことを信心ともいいます。


しかし、釈尊が仰った言葉といっても「生きているお釈迦さまの肉声」は今日の私たちは耳にすることはできません。したがって、釈尊の発遣というのは大無量寿経のことです。大無量寿経に書き残されている「教え」に従ったことを「釈迦の発遣に従う」といいます。そして、大無量寿経に説かれている内容は「阿弥陀如来の招喚」ですから、「言葉」あるいは「日本語」として私が目にし、耳にするのは「大無量寿経に説かれている内容」ということになります。別の言葉で言えば、「仏願の生起本末」「南無阿弥陀仏のいわれ」です。


これらは、一度でも御文章を読まれた方は目にしたり、声に出して拝読すれば耳にしたことのあるものです。それを「釈迦・弥陀の二尊の勅命」と聞き受けたのが信心というものです。別段「不思議な声」を聞くことではありません。


こう言いますと、「仏願の生起本末なら聞いたことがあります」とか「御文章なら何度も読みました」と言われるかもしれません。耳で聞いても「それがどうした」と思えば、疑い無く聞いているとはいえません。それを「その通り」とそのまま聞いたことを「聞いた」といいます。繰り返しますが、「聞いた」と言っても、それは「仏願の生起本末」であり、「南無阿弥陀仏のいわれ」であって「不思議な声」でも「声なき声」でもありません。もし、そのように「南無阿弥陀仏」や「お釈迦さまの教え」以外の「阿弥陀仏の声」を聞くことができたら、その人はすでに仏様ということに成ってしまいます。


「ただ今救う」の仰せをそのまま聞いて救われてください。

*1:

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典より