阿弥陀仏に救われるとは、阿弥陀仏の仰せをそのまま聞くということですが、そのまま聞くための心の向きというのはあるのでしょうか?阿弥陀仏に救われたいと思うものの毎日変わらない日々を過ごしております。(頂いた質問)
阿弥陀仏に救われたいの思いと「阿弥陀仏の救いを待つ」というのは気持ちはよくわかりますが、よくないものだと思います。なぜなら、阿弥陀仏の方から回向されるのだから私に何もすることはないということを、何か間違って聞いておられるように感じるからです。
このあたりの話は、「求めるのは自力だ」という意見もあれば、「待っていれば助かるのか。そんなのは無帰命安心だ」の意見もあります。
確かに「○○しなければ助からない」という意見は自力で救いを求めるようであまり同意できません。しかし、「待っていれば助かる」というのも阿弥陀仏の救いを宛にするばかりで、自力を捨てることなくただ、「待てばよい」と「待つ」行為によってすくわれようとしているのでこれも間違いです。
阿弥陀仏の本願は、私にそれぞれ応じて救いの手を差し伸べてくださっています。
印度西天之論家 中夏日域之高僧
顕大聖興世正意 明如来本誓応機(正信念仏偈)
印度西天の論家、中夏(中国)・日域(日本)の高僧、大聖(釈尊)興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P204)
http://goo.gl/zVo8HH
阿弥陀仏の本願が「機に応じる」というのは、私のために私が救われるようにいろいろと手だてを講じて下さるということです。私が阿弥陀仏の本願に応じるようにしたから救われるのではなく、阿弥陀仏の方から私に合わせて救って下されるということです。
それを「待つ」とか「どうすれば」とあれこれ自分を変えることで救われようとするのは間違いです。ただ今救うという本願の通りに、ただ今救われてください。