安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

「そのまま」が分からない。そのままはそのまま、他の何物でもないんでしょうけど。獲信のときに気付くことであって、今の私には知り得ないことなのかな。(でんさんのコメントより)

前のエントリーのコメント欄より、でんさんのコメントについて思ったことを書きます。
「そのまま」についてです。

たかぼー 2013/08/08 11:30
「そのまま救う」という如来の仰せについては、既にいろいろなところで聞いていると思いますが、ご質問されている方は「そのまま救う」の意味を理解されていないと思いました。「そのまま」は私の方で用意すべきもの(善行、智慧、心構えなどあらゆるもの一切)は何ひとつとしてないということです(無条件の救い)。その救いのあり方に「待つという私の行為」を差し挟むことは「そのまま無条件の救い」になるでしょうか。そうではありませんよね。待つという私の思いや私の行為を差し挟むと「そのままのお救い」を自ら阻害してしまうことになります。ではどうしたら、と思うと思いますが、「どうしたら」という思いも、「そのままの救い」を阻害してしまいます。「そのまま」は文字通り「そのまま無条件」なのです。私の思いなどの一切を差し挟まない「そのまま」なのです。そのままと深く心中に思い定まったのが自力が廃って弥陀に帰命したということです。このことが理解されるまで、山も山さんからよくよく聞かれることをお勧めします。とても大事なところです。これ以上に大事なところはありません。


でん 2013/08/09 01:33
その「そのまま」が分からない。
そのままはそのまま、他の何物でもないんでしょうけど。
獲信のときに気付くことであって、
今の私には知り得ないことなのかな。
そのまま、これからも聞かせていただきましょう。
ん?これが「そのまま」?


こそあど 2013/08/09 03:20
信じられないまま、信じようとする。
聞けない心を引きずりながら、聞こうとする。
必ずお慈悲の働くときがいたります。
泣いても笑っても逃げ場はないのです。
ダメな己れは隠せもしないが、邪魔にもならない。
信じるに足るものは弥陀の本願ひとつです。


たかぼー 2013/08/09 11:13
「そのままこれからも聞かせていただきましょう。」「ん? これがそのまま?」
←違います。
 「そのままこれからも聞かせていただきましょう。」とは、「そのままのお救いであると分からなくても、分からないままそのままにこれからも続けて聞かせていただきましょう」という意味で仰有っているものと理解されますが、それは「そのままのお救い」と聞くことの勧めとはまったく違います。山も山さんが日頃「今、救われて下さい」と言われている「今」の救いを勧めるものとはまるで違います。また、「ん? これがそのまま?」と思っているのも、如来の仰せを「そのまま無条件のお救い」と聞いているのとは違います。帰命ではありません。それは無帰命です。そのままとは、如来の救うの仰せをつねに今「このままのお救い」と聞いていることです。「ん?これがそのまま?」という思いは一切必要ありません。そのような私の思いなど一切を差し挟まない「このままの救い」なのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130807/1375875814#c1375929051

でんさんのコメントにありますが「そのままが分からない」という点について書きます。私も、この言葉の意味が以前は判りませんでした。しかし、分かってから救われるというものでもありません。結論からいえば、阿弥陀仏に救われてみると分かる言い回しです。そこで、このエントリーで救われる前はなぜ分からないかを考えてみます。


阿弥陀仏の救いはそのままの救いである」とか「そのまま救う本願だ」など私もブログ上で似たような言い回しを何度も書いています。しかし、そう聞くとどうしても「そのまま」と聞いた時に自分の姿や自分の心を振り返ってしまいます。そうすると「そのままというが私はまだ救われていませんが」と考えてしまいます。「そのまま救う」というのは、阿弥陀仏の仰せなのですが、なぜか阿弥陀仏の仰せではなく、自分の心の中ばかりを見てしまいます。しかし、よくよく考えて見ますと阿弥陀仏の仰せは「自分の姿を省みよ」とか「自分の心を何か変えよ」と言われていません。

二河白道の譬えで善導大師が、阿弥陀仏の仰せを書かれたものを紹介します。

また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(教行信証信巻_
浄土真宗聖典―註釈版P224)

http://goo.gl/2pg6A

「ただちに来れ」といわれるのも「畏れざれ」と言われるのも、私の方で計らうことを一切止めよと言われている言葉です。


言い換えますと、「ただちに来れ」と聞いて、自分の心と相談するのを止めなさいということです。「ただちに来れ」と言われる阿弥陀仏の仰せを、言葉通りに聞いたのが「そのまま」ということです。
それでは何か不足が有るように思うのは間違いです。「ただちに来れ」「われよくなんぢを護らん」は全て、言葉通りに阿弥陀仏がなされることですし、実際その通りに救われます。本願力による救いとは、そのように本願の通りに救われるということです。


また、言葉をかえれば平等の救いです。「そのまま救う」と聞いて、「このままで救われるのか?」と疑問を起こすのは阿弥陀仏のお慈悲が平等であるということを疑っているからです。平等の慈悲を疑うというのは、「○○な人は早く救われるかも知れないけれど、自分は××だから阿弥陀仏も救うのは難しいだろう」と思うことです。それでは、阿弥陀仏のお慈悲に差別があることになります。阿弥陀仏のお慈悲が平等というのは、全ての人に対する慈悲が定量ということではありません。必ず浄土に生まれさせ、仏にしてみせるという結果においての平等です。ですから、「より苦しむもの」や「より救われ難いもの」に阿弥陀仏の慈悲は、より重くかかります。「こんな自分は救われない」と思う人は、逆に「こんな自分は救われないと思っている私にこそ阿弥陀仏の慈悲はかかっている」ということを知ってください。


「ただちに来れ」の仰せの通り、阿弥陀仏は気長に私を待っておられる仏ではありません。すぐさまただちに救うと現在働き掛けておられます。ただ今救うの仰せを仰いでそのまま聞いてください。ただ今救われます。