安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「観無量寿経は、何と説かれていますか?」(西玉子さんのコメント)

西玉子さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

西玉子 2013/05/25 13:15
こんにちは。日に日に暑くなりますね。。観無量寿経は、何と説かれてますか?宜しくお願い致します。南無阿弥陀仏・・・合掌

観無量寿経に説かれていることは、二つあります。無量寿仏(阿弥陀仏)を観ずる(心に思い浮かべ観察する)ことと、念仏の勧めです。

この経をば〈極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩を観ず〉と名づく。また〈業障を浄除し諸仏の前に生ず〉と名づく。(観無量寿経_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P117)

http://goo.gl/CASf1

ここで「無量寿仏を観ずる経」であると名づけると言われて、観無量寿経といわれます。

このすぐ後に

この三昧を行ずるものは、現身に無量寿仏および二大士を見ることを得。(同上)

と説かれ、「この三昧(観仏三昧。無量寿仏を観察すること)を行ずるものは、阿弥陀仏と観音菩薩、勢至菩薩を見ることができる」と、観察、観仏三昧を勧めておられます。


次に、

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。
仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。(同上)
(現代語訳)
もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。このような人は、観世音・大勢至の二菩薩がすぐれた友となリ、さとりの場に座り、仏がたの家である無量寿仏の国に生れるのである」
 釈尊は阿難に仰せになった。
「 そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである 」

と、念仏を勧めておられます。


そこで、善導大師はこの観無量寿経に説かれていることはこの二つのことであると言われています。

いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす。 一心に回願して浄土に往生するを体となす。(観無量寿経疏_玄義分_
浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)
P305)

「宗」というは、もっとも大事なところところという意味です。
そこで、この観無量寿経には、「観仏三昧」と「念仏三昧」と二つの最も大事なところがあるといわれています。お経に「宗」というものは、一つなのですが、この観無量寿経には「宗」が二つあるといわれています。
そうなると、その二つはどういう関係になるのかという疑問がおきます。それに対して「 一心に回願して浄土に往生するを体となす」と言われています。これは「浄土に往生したいと目指す」という点で同じなのだといわれてます。


そこで、今日の私にとってどちらが大事なのかということになります。考えられるのは、観仏三昧と念仏三昧のどちらか、あるいは両方です。では、私にとって観仏三昧ができるのか、できないのかと考えますと、それができない人のために観無量寿経のなかでは念仏をすすめられています。


実際にできる人は過去にあったのでしょうが、私に観仏三昧はとてもできません。また、そんな私を見捨てず救う為に阿弥陀仏は本願を建てられました。
善導大師は、観無量寿経を説かれた仏様の心を以下のように言われています。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(観無量寿経疏_玄義分_浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)P312)

仏様の大慈悲は苦しむものにかかるものです。ひとえに常に沈んでいるものを憐れに思われています。そこで私に浄土に往生せよと勧められています。水におぼれている人がいたならば、それを見た人はただちに救うために飛び込むようなものだと言われています。岸の上にいるただ今おぼれていない人は後回しです。


自分の為にお釈迦さまが説かれたものとして観無量寿経を読む時には、一つには、「常没の衆生」である私に「勧めて浄土に帰せしむ」ために説かれたものとして、もう一つはそのために「念仏を勧められた」と読んでいます。そのように、善導大師も親鸞聖人も教えてくださっています。

追記

2013/05/26 10:48 にコメントねぎまさんよりご指摘頂き訂正しました。