安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「疑情≠無明の闇というのは私にとって驚愕でした。今までずっと二つの心はイコールだと思っておりました。そうすると無明の闇というものがなんなのか分からなくなってきたのですが、弥陀に救われると無明の闇もなくなるんですか?」(KYさんのコメント)

今回の記事を読んで、疑情≠無明の闇というのは私にとって驚愕でした。
今までずっと二つの心はイコールだと思っておりました。
そうすると無明の闇というものがなんなのか分からなくなってきたのですが、
弥陀に救われると無明の闇もなくなるんですか?
「無明の闇を破するゆえ、知恵光仏となづけたり」
のお言葉や、
「大悲の弘誓は難度海を渡する大船
  無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
などのお言葉からすると無明の闇は救われると同時に消滅
するように思えますが。
「無明の闇=死後ハッキリしない心」とすると、救われたら死後ハッキリする
という論理になりそうですがいかがでしょうか。
よろしくお願いします。(KYさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130317/1363533550#c1363566775


最初に結論を書きます。語義の定義とは、特定団体の会長のするものではなくお聖教によらねばなりません。その上で「後生くらい心」という言葉は、少なくとも浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版には出てきません。浄土真宗で用いられる一般的なお聖教にない言葉を持ってきて、「後生くらい心(死んだらどうなるか判らない心)」=疑情=無明の闇」としたところがそもそもの間違いです。
「無明の闇=疑情」とする分には、阿弥陀仏に救われるとなくなります。



そこで「無明の闇≠疑情」と「無明の闇=疑情」の場合があるのかという疑問を持たれる方もあると思いますので、以下に説明します。


真宗の一般的な解釈からしますと、無明は煩悩、無明の闇は疑情と区別する場合が多いです。しかし、それらを「後生くらい心」とイコールにできるかといえばそうではありません。


簡単にしますと
○後生くらい心=煩悩(無知・無明)…間違いでもない
×後生くらい心=疑情(無明の闇)…間違い


よって
×後生くらい心=無明(煩悩)=疑情(無明の闇)…成立しない
となります。


まず無明とは仏教一般で言いますと、無明=無知のことです。

我々の存在の根底にある根本的な無知をいう。十二縁起のはじめにも出されている(教育新潮社浄土真宗用語大辞典より)

十二縁起(または十二因縁)の最初に「無明」とあります。正しい縁起ということが知らないことを無明といいます。


その上で、親鸞聖人が「無明」あるいは「無明の闇」と使われているところでは、

  1. 煩悩
  2. 疑情
  3. 1,2,またはその両方

と意味が分かれています。


以下、それについて、コメントの部分も含めて書いていきます。

1.無明=煩悩の箇所

(36)
無明長夜の灯炬なり
 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり
 罪障おもしとなげかざれ(正像末和讚_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P606)

こちらの「無明長夜」については、草稿本の左訓に「ほんなう(煩悩)を長き夜にたとふ」(真宗聖教真聖全書_拾遺部下P40)と書かれています。

2.無明(の闇)=疑情の箇所

摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、
貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。(教行信証行巻_正信偈_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P203)

摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

http://goo.gl/jOWsV

ここでは、無明の闇が破れても、貪欲・愛欲・瞋恚・憎しみといった煩悩が「つねに真実信心の天」を覆っているので、疑情となります。

3.無明(の闇)=煩悩 叉は 疑情 叉は その両方の説が分かれる箇所

無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。(教行信証総序_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P131)

http://goo.gl/IqPgv
a.無明(の闇)=煩悩の場合

無碍の光明が、私たちの無明(煩悩・真実に反する愚痴であり痴無明)を打ち破って浄土往生させて下されるといえます。

b.無明(の闇)=疑情の場合

現在ただ今「無明の闇(疑情)が破す」という意味から言えば、煩悩具足の凡夫に「無明(煩悩)が破れる(無くなる)」ということはありません。

c.無明(の闇)=疑情であり煩悩でもある場合

私が本願を疑う心は、阿弥陀仏に救われると無くなります。そこから、いえば疑情(無明の闇)はなくなります。しかし、阿弥陀仏のお働きから言えば煩悩を消し去って浄土往生をさせてくださいます。その意味で、無明の闇は疑情であり、煩悩でもあります。


この「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」は、元々曇鸞大師の往生論註にある言葉から書かれたものです。

かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。(往生論註_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)浄土真宗聖典(註釈版)P103)

http://goo.gl/OLjWZ

ここでは「無明を破し」とあります。それを教行信証を書くにあたって、一部変えられました。


教行信証で、その部分の原文(漢文)を書きますと以下のようになります。

難思弘誓 度難度海大船
無碍光明 破無明闇恵日

教行信証総序は、原文で見ると四六駢儷体で書かれています。そして、お互いの行と言葉が対応するように書かれています。
上記の漢文でみると「無明闇」と「難度海」がそれぞれ因果関係となるようにかかれています。「無明闇」が因となり「難度海」という果があらわれたということです。元となった往生論註では「無明」とされているところを、六字にするために「闇」という言葉を足されたものとおもわれます。


そうしますと、私個人としてはこの教行信証総序にある「無明の闇」とは「無明」のことであって煩悩のことだと思います。もちろん、真理に無知であるというところから、本願を疑うことにあてはまるので(b)も(c)も間違いではないと思います。


上記でいいますと、「無明の闇を破するゆえ 無碍光仏となづけたり」のご和讃は、曇鸞大師の「讃阿弥陀仏偈」から取られたものです。

仏光能破無明闇 故仏又号智恵光
一切諸仏三乗衆 咸共歎誉故稽首
(仏光よく無明の闇を破す。ゆゑに仏をまた智慧光と号けたてまつる。
一切諸仏・三乗衆、ことごとくともに歎誉したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。)
(讃阿弥陀仏偈_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)浄土真宗聖典(註釈版)P163)

http://goo.gl/P5ls0

従いまして、ここでいわれる讃阿弥陀仏偈の「無明闇」は「煩悩」の意味で書かれたものです。それをご和讃にされるにあたっては、本来の意味からすればご和讃の「無明の闇」も「煩悩」と読むのが妥当です。


しかし、親鸞聖人の教え全体からすれば、(c)の意味だと言っても問題はありません。しかし、(b)の疑情であるというのはこのご和讃に関しては言えません。


長々と書きましたが、最初に書きましたように「後生くらい心(死ねばどうなるか判らない心」」という言葉を、そのまま「無明」「無明闇」「疑情」とイコールにするには無理があります。それを全部イコールとすると、浄土真宗では無くなってしまいます。


もともとこのことを言い出した某会の会長の主張がそもそも語義からしていろいろと問題があるので、説明も非常に煩瑣なものとなりました。


最後に

「無明の闇=死後ハッキリしない心」とすると、救われたら死後ハッキリする
という論理になりそうですがいかがでしょうか。(KYさんのコメント)

もともと「無明の闇=死後ハッキリしない心」という等式が成立しません。それを成立すると言ってきたのが、某会です。その某会の理屈から言えば、「死後ハッキリする」という理屈は成り立ちますが、前提となる等式が間違いなので、その論理は成り立ちません。


分かりにくい点があればまたお訪ねください。よろしくお願いします。