安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心決定すれば、お聖教がすらすらと読めるようになるのでしょうか?(頂いた質問)

信心決定すれば、お聖教がすらすらと読めるようになるのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われると、お聖教がすらすらと読めるようになるのではないかという意見は、よく耳にします。実際私もそのように思っていました。

そのように思っていたのは、過去にそのような話を聞いていた影響が大きいです。
また、親鸞聖人のご和讃にも、「信心の智慧」というお言葉が出てくることも、そう考える原因の一つでした。

その和讃は、以下のものです。

(34)
釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
 願作仏心はえしめたる
 信心の智慧にいりてこそ
 仏恩報ずる身とはなれ(正像末和讃)

ここで「信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」の部分を読んで、阿弥陀仏に救われると(仏恩報ずる身となると)、「信心の智慧」が身に付くのかと思っていました。

しかし、それは全くの間違いです。
信心の智慧については、親鸞聖人が左訓されています。

【左訓】「弥陀のちかひは智慧にてましますゆゑに、信ずるこころの出でくるは智慧のおこるとしるべし」(異本)

阿弥陀仏を信じる心が出てくるのは、阿弥陀仏の智慧の働きであるということです。決して「信心の智慧」という、人間を超えた智慧が身に付いて、経典をはじめとしてお聖教が読めるようになるということではありません。

それは丁度、何かの病気が治ったからと言って頭脳が明晰になることはないのと同じです。お聖教がすらすらと読める人になるには勉強するしかありません。実際私も、阿弥陀仏に救われたら教行信証もすらすらと読めるようになると思っていた一人ですが、今でもすらすらとは読めません。


ただ、阿弥陀仏が私を助けるために本願を建てられ、ただ今私を助けると喚びつづけておられるということは、お聖教にある通りのことだと読ませて頂いております。それ以上、すらすらと読みたいと思えば、やはり勉強するしかありません。

とはいえ、勉強するのも自分が法を知りたいと思ってするものであって、それによって何かしら第三者に優位性を得ようと思うのは間違いです。


まず、ただ今阿弥陀仏に救われてください。勉強は、それから命のある間にしたらいいものです。