安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

しかばねさんのコメントから、唯除五逆誹謗正法について

前回のエントリー法を知らされた凡夫には、お釈迦様の様には判らないにしても、阿弥陀仏が本当におられるという事がハッキリと判るのでしょうか(しかばねさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)について、複数の方からコメントを頂き有り難うございました。


コメントも長くなってきたので、一部抜粋したものと、私からのコメントをエントリーに書きます。抜粋したコメントは「唯除五逆誹謗正法」と「いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」について書かれたものです。なお、文字化け、誤変換の修正があったものに関しては、こちらで直しました。

しかばね 2013/03/26 18:55
本願を“そのまま”聞いているのが信心です。
「唯除」は、“そのまま”「唯除」と聞く。
自分の計らいを入れてはいけません。

山も山さんの解釈は、方便の教えとしてはいいですが、それでは「第十八願を心得る」ということにはなりません。

私は、自分は「唯除」と知らされました。 つまり「本願からもれている」としか思えなくなりました。
親鸞聖人が「いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」とおっしゃった心と同じです。

そして、その自分一人の為に、ずっとずっと前から、阿弥陀様が付きずめでいて下さっていた事にも気付きました。
親鸞聖人が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」とおっしゃった心と同じです。(以下略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130326/1364282086#c1364291747

ソイ 2013/03/26 21:42
>何度も言いますが、本願を“そのまま”聞いているのが信心です。

その通りです。
五逆罪と謗法罪を造っているものは、本願から漏れている、そのまま聞けばよいでしょう。
それが、どうして

>私は、自分は「唯除」と知らされました。 つまり「本願からもれている」としか思えなくなりました。

こうなるのですか?

>本願を“そのまま”聞いているのが信心です。

とは違うでしょう。
何度でもいいます。

五逆罪と謗法罪を造っているものは、本願から漏れている

これがそのまま聞くことではないですか。それと、私が五逆罪謗法罪と知らされると事とは、何の関係もないです。
日本語の問題ですよ。

親鸞聖人が地獄一定と仰ったことと、五逆謗法の者と知らされたこととは、全くべつの話です。
親鸞聖人が御自身のことを、五逆謗法の者と仰った箇所は皆無です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130326/1364282086#c1364301743

通りすがり 2013/03/26 22:44
(略)
親鸞聖人が「いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」とおっしゃったのは、「本願からもれている」という意味じゃないでしょ?「自力では出離できない身であり、五逆・謗法を絶対に犯さない優れた身でもない」ということでしょ。で、そんな者をも漏らさず救う阿弥陀仏の本願まことであるなぁ、となるわけ。これがニ種深信。「唯除」については『尊号真像銘文』の最初をよくよく読んでください。ネット上でも読めますので。

それとも親鸞聖人「「唯除」とは「本願からもれている」と信知することである。」と、どこかでおっしゃっていましたか?もしおっしゃておられないならば、しかばねさんの言われるような領解は「おかしい!」ということになるんですが・・・

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130326/1364282086#c1364305499

たかぼー 2013/03/27 11:11
 真宗の正しいご信心を語る以前の問題として、しかばねさんが述べる「信」のありようが理解できないので、お尋ねします。あなたは「自分は唯除と知らされました。つまり本願からもれているとしか思えなくなりました。」と言われていますが、あなたは、(1)信後においても「自分は五逆謗法の罪を犯している」という自覚があるということですか。それとも(2)以前においては五逆謗法の罪を犯してしまったが、現在では過去にそのような過ちを犯した自分でも阿弥陀仏は摂取された(そのため現在は五逆謗法の罪を犯していない)、ということですか。また、(3)仮に現在もあなたは五逆謗法の罪を犯しているというのであれば、それは五逆の罪ですか、謗法の罪なのですか。
 因みに私は過去に五逆謗法の罪を犯したという思いはありませんし、現在もありません。唯除されたとの思いも勿論ありません。なお、私は実機に関する認識(自分は善人であるとか悪人であるとか、或いはセンダイであるとかなどの個々人の思いや区別)は他力信とはまったく無関係であり、他力信か否かは自力が廃捨されているということの一点で判定されるという立場です。もちろん、自力廃捨は摂取不捨の弥陀の願心をそのまま聞き受けているということと同義です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130326/1364282086#c1364350310

自利鬼 2013/03/28 04:41
唯除と機の深信

唯除は三心と対をなす。即ち18願一願中に施益と抑止を示すにより、他願を要せず摂取したまう。
高森某の三願転入誤解の失はこれを知らざるによる。18願を説く中に余の善は無用なのである。

獲信の後、自力廃るのは成道放棄に同じ。絶対助からぬ道理である。
機の深心とはこのことである。
しかるを、そのままと助けられた弥陀のかたじけなさよ有難や、となる。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130326/1364282086#c1364413314

おすぎ 2013/03/28 04:54
しかばねさんへ

「機の方でハッキリすることがある」とはどんなことか
私も知りたいですね。教えて下さい。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130325/1364201581#c1364414041

たかぼー 2013/03/28 10:34
自利鬼さんのいう「獲信の後、自力廃るのは成道放棄に同じ。絶対助からぬ道理である。機の深信とはこのことである。」というのは、「成道放棄」は「自力での成道(仏道)を放棄」するということであり、「絶対助からぬ道理というのは、「自力成道は絶対不可能」ということであり、また「機の深信」というのは、「自力での成道不可能と知る」ということですか。つまり、本願一乗が唯一の仏道であることを信知するということですね。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130326/1364282086#c1364434485

自利鬼 2013/03/28 16:07
たかぼー様、

御意にございます。ただ「不可能と知る」というよりも「不可能となった状態」そのものということです。
無疑とは「疑いの全くでなくなった状態」そのものを指すがごとくです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130326/1364282086#c1364454424

むしょくん 2013/03/28 16:39
しかばねさんの仰ることは高森会長の全人類は五逆謗法の者、一切衆生必堕無間と似ている気がするんですが(善をしなければならないというのは違うけど)
この辺皆さんはどう捉えてますか?

たかぼー 2013/03/28 17:27
むしょくんさんの疑問に応えるためには、しかばねさんに私の出した次の質問に応えて貰う必要があります。すなわち、しかばねさんは「自分は唯除と知らされました。つまり本願からもれているとしか思えなくなりました。」と言われましたが、それは、1.信後においても「自分は五逆謗法の罪を犯している」という自覚があるということですか。それとも、2.以前においては五逆謗法の罪を犯してしまったが、現在では過去にそのような過ちを犯した自分でも阿弥陀仏は摂取された(そのため現在は五逆謗法の罪を犯していない)ということですか。また、3.仮に現在もあなたは五逆謗法の罪を犯しているというのであれば、それは五逆の罪ですか、謗法の罪なのですか。という質問です。また、次の質問を追加します。4.五逆謗法の罪を犯したことはないが、唯除と知らされたのですか。なお、3の質問に対するご回答については回答なしでも構いません。以上の点が明らかになれば、議論続行ということになるでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130326/1364282086#c1364459237

たかぼー 2013/03/28 17:40
上記の1.の質問は、信後においても「自分は五逆謗法の罪を現在も犯し続けている」という自覚があるということですか、という趣旨です。文意が不明瞭であったかも知れません。その意味では3の質問も重要ですね。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130326/1364282086#c1364460013


最後のたかぼーさんのコメントに書かれる疑問に対して,もししかばねさんが回答されるならば、今後も議論は続けられますが、無回答の場合はこれで、しかばねさんとの問答は終了ということになります。


そこで「唯除五逆誹謗正法=いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」という等式が成立するのかということについて書きます。私もこれについては、コメント欄にも少し書きましたが、改めて書きます。


まず、唯除五逆誹謗正法については、以前のエントリーにも引用しましたが,尊号真像銘文に親鸞聖人が書かれています。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号真像銘文)

五逆罪を造っている者、謗法罪を造っている者には、その罪の重さを知らせて、廻心させて救うという御心だと親鸞聖人は言われています。


そこで歎異抄第2条の

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(歎異抄第2条)

についてはどうかということを考えて見ます。


ここで「いづれの行もおよびがたき身なれば」は、「どれだけ善根功徳を励んだとしても、それが往生の行にはなりえない私」という意味です。これだけを読むと、「悪を造っているから」ではなく、「往生浄土するだけの法蔵菩薩がされたような行ができないから」という意味です。


親鸞聖人はご和讃に以下のように言われています。

(72)
願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃)

阿弥陀仏の願力ででき上がった浄土ですから、自力の行では絶対に行くことができません。だから、大乗仏教、小乗仏教の「聖者」といわれるある程度のさとりをひらいた人も、自力の行をすてて本願力に乗ずるのだと言われています。


つまり、「五逆罪」「謗法罪」を造っている人も、造っていない「大小聖人」も「いづれの行も及びがたき身」という意味では共通しています。そういう意味で「十方衆生=五逆罪、謗法罪を造っているもの」という等式は成り立ちません。ご自身がそう思う分には構いませんが、「自分がそうだからみんなそうなんだ」というのは、知性の不足した状態ということになります。



次に「地獄は一定すみかぞかし」は、親鸞聖人ご自身のの罪悪観の自覚の元にいわれているものです。今日に生きるただの凡夫である私は確かに「地獄は一定すみかぞかし」と言えるでしょう。しかし、それが、そのまま「五逆罪・謗法罪を造っている自覚から」いわれるというものではありません。往生要集によれば、貪欲などの十悪でも十分地獄に落ちます。


まとめますと、「唯除五逆誹謗正法」のご文を、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」とイコールにするのは、やはり無理があります。ご自身が、五逆罪謗法罪の者という自覚の上で、本願文を読まれる分には問題ありませんが、「全人類は五逆罪謗法罪の自覚がなければ本願を聞いたとはいえない」という説は、龍樹菩薩や天親菩薩に向かっても同じことが言えるという前提でなければいえないことです。


最後に、しかばねさんがどのような「信心」を獲られたかについては、私はどういう判断することはできません。しかし、自分の理解できない領解をすべて異安心とか無安心という態度はあまり感心しません。