安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心獲得したといっている人が気をつけること。自戒の意味で,信仰の中二病問題について

この何回かのエントリーで、しかばねさんのコメントについていろいろとコメント欄で議論があり。私も、何回かエントリーで書きました。


しかばねさんのコメントの流れを見ていると、過去の自分と重なるところがあり、他人事とも思えずいろいろと書いてきました。しかばねさんの信心が、真実信心かそうでないのかについては、ご本人がそれ以上語らな以上はなんともいえません。しかし、ただ一つ言えることは「しかばねさん」ご自身は、「信心獲得した」という前提でものを語っておられるということです。


自分自身の体験と、その時の教学を元に「破邪顕正」の刀を振り回す姿は、昔の自分を見ているようでした。ある意味「痛々しい」といいますか、ネット用語で言えば「黒歴史」を見せられている感覚に陥りました。


ただ、そのように「痛々しい」などと感じることができるのは、私にいろいろと忠告したり、叱ってくれた方があったからと今では思います。私がこの安心問答というブログを始めたのは2008年でした。その頃は、まだ親鸞会に在籍していました。当然そのころの内容は、親鸞会という組織防衛をしようという意図もありつつ、なんとか教えを判ってもらおうという気持ちの板挟みで、いろいろと苦労をしながらブログを書いていました。



ブログを始める前ごろには、「信心決定した」という自覚はありました。その自覚から「ネット上でおかしなことを言うものをなんとかしよう」という当時の正義感から始めたのがこの安心問答でした。ちなみに、親鸞会在籍時のエントリーはそのまま今でも残しているのは、個人的な自戒のためです。過去の自分はこんな考えや、教学でものを書いていたのかということをネット上に人生の足跡として残すために、敢えて削除せずに残しています。


その当時、私が非常に反省をしたことを紹介します。その当時、親鸞会に在籍していながら「信心決定した」と思っていた私は、ある意味非常に調子に乗っていました。口に出して言わないまでも、かなり自惚れていました。それは「あなた達が、何年、何十年求めても獲られない信心を私はどういうわけか獲得しましたよ」というようなものです。「痛い」ですね。もう、布団を被って両足をバタバタしたいくらいの「青さ」です。世に言う「中二病」みたいなものです。「中二病」とは、過大な自己意識の肥大と、自身の未熟さがまったく噛み合わないアンバランスさからいわれる病気のような症状です。


そこで2008年当時の私は、親鸞会全体で推進されていた「信心の沙汰」を身近にいる「弘宣局のスタッフ」に対して行っていました。弘宣局での建て前上の就業時間が終わった18時以降に、同じ部屋で作業をしていた親友部のS君(後輩)に対して、いろいろと信心の沙汰をしていました。それを横で聞いていた、親友部で先輩であるHさん(私より先輩)が私を叱ってきました。


その内容は以下のようなものです。

Hさん「君の言うことは正しいのかもしれない。しかし、なぜそんなに上から物を言うのか全く理解出来ない。前も、上から物をいうところはあったけど、今はそれとは比較にならないくらい『こーーーーーーーんなに』上から物を言っている。とても聞いておれない、というか、そんな人の話は聞けない」
その話を聞いて、私は絶句しました。その後に、Hさんに謝罪をしました。



会を辞めてからも、いろいろなご縁で私を叱って下さる方があり、今日まで至っています。私を叩いて下さったみなさんには、本当に感謝してもしすぎることはありません。この場を借りて御礼申し上げます。
先に書いたHさんから学んだことは「獲信しても偉くなったのではない」「上から物をいう人からは、誰も聞いてくれない」という事です。


しかばねさんのコメントは、まさに私の過去の言動そのものと思います。叱ってくれる方がなければ、たとえ信心獲得されたとしても、いわゆる「中二病」になってしまうと危惧します。いうなれば「信仰の中二病」でしょう。


法の世界は果てしなく広いです。それを教えられた先生もたくさんいます。それらに対して、「俺は全部を知っている」とか「もう学ぶ必要はない」などと思ったら、富山県に本拠地をおく某会の会長と全く変わりません。



死ぬまで一聞法者という立場を忘れては成らないと思います。自戒を込めて書きました。